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豊臣秀吉って元は犬居天野氏の被官だったりしない?【研究ノート:天野氏】

※今回はゆるめの研究ノート、というか妄想です。


犬居の天野氏の本拠地・犬居は現在の浜松市天竜区春野町に位置する。
合併前は周智郡春野町で、1997年3月に「春野町史 通史編」上巻が刊行されているが、その中世史の大半が天野氏に関する事柄で、天野氏研究には欠かすことの出来ない資料となっている。もちろん手許にある。

さて、中世の武家社会には寄親・寄子という制度があった。主従関係を親子関係になぞらえたものである。

さあ戦だとなると、寄親は寄子を引き連れて出陣する。戦が終わると、寄親は自分たちが戦でどのような功績を挙げ、どんな被害を蒙ったか、具体的に言うと「誰の首を取ってどんな怪我を負った」とかいうことを、軍忠状にして主人(大名とか)に報告した。主人側はそれを元に感状という文書を発給した。

前出「春野町史」によると、天文14(1545)年8月、今井狐橋の戦いにおいて天野小四郎(虎景)に与えられた感状に「同心被官」とあり、小四郎が提出した書類(軍忠状か)にその同心や被官の名が記されているらしい。

天野氏は国人領主であり、同名親類や同心被官を寄子としていた。

その被官の中に木下氏2名の名が確認できる。

木下氏 木下藤三 木下藤二郎

……………ん????

どっかで見たような名前だな??????

めっちゃ豊臣秀吉っぽいな?????????

秀吉がはじめ木下藤吉郎と名乗っていたのは、多くの人が知っていることだろう。
おやおや天野氏の被官2名の名が「木下藤」まで一致している………。


実は豊臣秀吉という人物があまり好きではなく、そんなに詳しく知ろうと調べたりしたことがない。
が一応、現在の名古屋市中村区の農民だか足軽だかの子とされているけれど、本当のところ(史実的な意味で)は判っていないことは知っている。

信長に仕える前の木下藤吉郎は、遠江国の頭陀寺城主・松下加兵衛之綱に仕えていたという(だが秀吉と之綱は同い年なので、之綱の父・長則に仕えたのでは、という話だ)。
頭陀寺城は曳馬城(後の浜松城)の支城で、現在の浜松市南区にあった。松下氏は今川氏の直臣・飯尾氏(曳馬城主)の家臣である。

あらあらあらあら浜松ですか。犬居も今は浜松ですよ。

え、コレ名古屋から浜松に下るより、犬居ら辺から天竜川下って浜松行く方が自然じゃない??? 同じ下るでも全然違うよ?????

頭陀寺城

ほら。

やだこれひょっとして…
木下藤吉郎って犬居天野氏の被官だったんじゃないの?????

……本人が被官だったかどうかは別にして、被官木下氏の人なんじゃないのって思った人、それなりにいるんじゃないかと思うんですが、秀吉について管見すぎてそういうことを書いてる本を見たことがないですね……いや、抑も秀吉について書いてる本自体見ていないのでは……。
でも「春野町史」書いた人は脳内によぎったと思う。思っても根拠ないし書けないのは、私も某市史書いたからわかる。よぎったと思いたい。

寄子が寄親を勝手に変えることは許されていなかったそうなので、藤吉郎が天野氏から松下氏に寄親を変えることを願い出る今川氏宛書状とか出て来ないかなー。でも自分の出自を隠しに隠した秀吉のことだから、そんなものがあるなら徹底的に焼かせたよね…。


ともかく、証拠がなければどうにもならないけど、「春野町史」を見て以来、私の脳内では

秀吉はうちの先祖の一族の元家臣

ということになっている。


先祖贔屓の勝手な妄想と鼻で笑っていただいて構わない。
でも妄想の余地があるから歴史は面白いのだよ。

まあ、うちの先祖は秀吉の時代にはとっくに犬居じゃなくて三河でしたけどね。

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