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論説 神の存在証明(6)【短編集:創作1000ピース,62】

【はじめに】

この「【論説】神の存在証明」は「神様はいるのか?」という問いに対して著者の考察をまとめたエッセイです。

「神とはなにか?」「存在するのはどのような状態なのか?」という、言葉の定義を出発点とし、宗教や神話を例にして、「神の存在」について論じたものです。

論理的、科学的な側面から神の存在と神とはなにかを論じており、宗教、オカルト、スピリチュアルな要素は含まれておりません。
純粋に哲学的な思考で論理を展開しています。

論説で語られる宗教に関する知識はすべて著者が書籍等から得たもので、そこから著者が感じた印象も含んでいます。

信仰を批判したり、信仰心を傷つける意図はございませんが、何かしらの宗教を信仰している方、神の存在について強い信念をお持ちの方は不快に感じる可能性がありますので、閲覧をお控えください。



【前回の議論】



第6論:【結論】神は人それぞれ。いる、いないも人それぞれ


神の存在基準は人それぞれ

第4論で、神の姿は人それぞれという答えに辿り着いた。
第3論で、存在の定義は主語によって変わる。存在の判断基準が人それぞれで違うと考えた。

「神」は人それぞれで、「存在」の判断基準も人それぞれ。
そこから話を進めていくことにする。

神は人それぞれ。いる、いないも人それぞれ。


ここまでの私の思考を整理していく。

神という概念は人間の畏れや天命を委ねる心の拠り所から生まれた存在であり、人間の創造物である。神話によって色んな神の姿が描かれていることからも、創作であることを物語っている。

存在の定義は主語によって変わる。
いるか、いないかは神の定義次第。

神の定義は言葉では説明し難い。人によって思い描く神の姿形が違うからだ。

神という概念は人が見い出したもので、人によって神様のイメージが違うとなると……、

神の姿は人それぞれ違うイメージを持っている。
なので、「いる、いないも人それぞれ」

という結論に至った。


「神はいる、いないも、人それぞれ」とはどういうことなのか

それでは、「いる、いないも、人それぞれ」とはどういうことなのか、宗教を例に考えてみたい。

神頼みという言葉がある。

私自身も受験の本番を迎える前に、湯島天神に神頼みに行ったものだ。塾の先生が太宰府天満宮に祈願に行ってくれた。
私はお守りを手にして試験当日、会場に入った。

「もう自分ができることはやった。試験もできる限り頑張る。あとは神様、合格させてください」

神頼みとはそのようなものだ。

自分のことはどうにかできるが、受験のライバルの正答率が高いとか、試験問題が難しいとか、受験者が少なかったから倍率が下がりそうとか。
それについては自分の力では変えられないので、運次第。自分にとって有利な運びになるよう、神に祈るのみ。

そこは天命を委ねた心の拠り所である神様に祈るしかない。
自分の運命を左右する局面に立ったとき、神様の存在を意識してしまう。

勉強の神様なら菅原道真公と言うように、○○の神様は日本にたくさんいて、ゆかりのある土地の神社に祀られている。
氏神様という、地域密着型の土着の神様もいる。

菅原道真公はもともと人間で、死後に神様として祀られている。「死んだ人は神様になる」という日本人の死生観が表われている。
だから日本にはたくさんの神様がいるんだと思う。

○○の神様が祀られた神社が色んなところにいるので、日本人は祈る目的に合わせて、お参りする場所を選んでいる。

そうやって神に祈る人は神様の存在を少しは信じているだろうし、信じることで少し気持ちを軽くする効果もあるんだと思う。

このように、日本の神様というといろんな神様を思い浮かべるのではないだろうか。

まさに、神様もそれぞれ、信じる・信じないも人それぞれ。


神の存在は「あなたが何を信じるか」次第

日本の「祖先はみんな神様」「八百万の神」の精神も、多神教文化として、くくることができる。

仏教もそうだ。開祖である釈迦族の王子ゴーダマ・シッダールタは菩提樹の木の下で瞑想をして、悟りを得た。悟りを得た者が仏陀(ブッダ)と呼ばれる。死後は仏様(別名、御釈迦様)として崇められている。
悟りを得た唯一の人間として、ブッダのように悟りを開いてこの世の苦しみから解き放たれるべく、仏教徒は仏陀を心の拠り所にしている。仏陀以外にも極楽浄土にいると言われる阿弥陀様や、修行中の身である菩薩も信仰対象で、仏教も多神教と言える。

多神教に相対するのが一神教で、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教になる。
この宗教の神様は同じだ。
言語が違うので、神の呼び名は異なるけれど、意味は同じでこの世界の創造神を意味する点は共通している。

一神教は他の神の存在を許さない。
他の神の存在を許したら、世界の成り立ちが説明できなくなり、創造神の権威が失われてしまう。

神様は人間が生み出した概念、という視点から考えると、信じるものがバラバラの民衆を束ねるより、ひとつの存在を信じている民衆を束ねる方がずっと容易い。

一神教は人をまとめるツールとして考えると、当然他の神様の存在を許すわけにはいかない。
信者からすると、世界を作った創造神こそが唯一の神様。神の存在はひとりで、世界共通の神。彼らにとっては神は存在すると言える。
だって信じているのだから。

だが、これらの一神教を信じていない人にとっては、神はいないも同然。

日本ではたくさんいる神様のうちの、異国の神様として認識されるかもしれない。
しかし、一神教にとってはこの解釈は許されない。

逆の視点では、唯一神の解釈が理解できない人にとって、一神教の信者が信仰している世界の創造神は存在しないことになる。
だって、自分が信じる世界観に存在しない神様なのだから。
(平たく言うと、物語に登場しない人物は認識できない=存在しないのと同じ理屈)


「神様はいるの?」の問い掛けに対する答えは……

このように神様の存在は、あなたが神様の存在を認めているか否か、どんな神様を信じているかに掛かっている。


この哲学ゲームの発端は娘みーちゃんの問いかけだった。


これまで考えてきた結果、
「神様は居るの?」に対する答えはこうだ。

あなたが神様を信じるなら、神様は存在する。あなたの心の中にね。

これにて、証明完了。


「あなたは神を信じますか?」


〈本論:了〉

語りきれなかったこぼれ話は余談へつづく……。

 



*** 創作1000ピース ***

 たくさん書いて書く練習をするためにまずは1000の物語を書く目標を立てました。形式は問わず、質も問わず、とにかく書いて書いて、自信と力をつけるための取り組みです。

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