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春の葬式

 それはよく晴れた春の日だった。父が死んだと電話を受けた時、私はまさに辛ラーメンを食べようとしていた。私は「そう」とだけ言い、電話を切った。そして出来立てほやほやのラーメンを伸びないうちに食べた。世間的にみると不謹慎かもしれないが、人なんて一日に何人も死んでいる。ただそれが父親という、名だけの身内なだけだ。もう何年も会っていない私には関係のないことだった。例え血を分けた親子だとしても、過ごした思い出が美しかったとしても、悲しむことができない死もある。もちろん死んだことは悲しい。けれどその悲しさは私の心が反応するというより、「死」そのものへの悲しさだった。私はラーメンを食べ終えた後、いつも通りの休日を過ごした。
 葬式に行くのは気が進まなかった。気が進む人なんていないか。職場に連絡を入れると同情の声で「こちらは気にせず、落ち着くまで休んでいいから」と言われた。私はいつものように働いていたかったのに。葬式は思ったよりも華やかできちんとしていた。お金はあまり持ってはいないけれど、人には恵まれていた父だった。私が行くと、周りは一瞬だけざわついた。昔からそういう町だった。だから来たくなかったのだ。それでも来たのは、一人で死んでいった父に対する同情からだろうか。居心地が悪かったので線香をあげるだけあげて帰ろうと思った。
「ねえ、あの子、どうするの」
 腰を上げようとしたその時、後ろの方からそんな声が聞こえた。「私は、無理よ」「家にだってそんな余裕はないわ」「どこの子かもわからないし」「施設にあずけた方が良いんじゃ…」、次々飛び交う嫌悪に満ちた声。その声の中心で、綺麗な正座をしている男の子が一人。あれは、いったい、誰だ。一度気がつくと、大人ばかりがいるこの空間において、明らかに異質な存在だった。小さく縮こまって、俯いている少年。線が細く、髪は短く整えられていた。不清潔な感じはしなかった。歳は小学校低学年くらいだろうか。身体が小さいからか怯えているようにも見える。父は、あの少年と暮らしていたの?ドラマを見ているようだ。けれどこれは現実だ。
 ぎゅっとこぶしを作る。私には関係ない。今の会話を聞く限り、父の子どもかどうかは分からない。子どもは施設に入れるのが妥当だ。このままだときっとそうなる。それが一番良い。運が良ければ里子に出されるかもしれないし、そうでなくても施設で幸せになれるかもしれない。人と関わることが面倒になった私とはいない方が良い。そもそも出生不明の子だ。私が何かをする義理はない。そんなことは分かっていた。だからなんだというのか。
 怯えて顔さえ上げられないのかと思っていた少年と、ふいに目が合った。前髪から覗いたその目は、怯えてなんかいなくて、むしろ鋭く尖った周りに喧嘩を売っているような、感情むき出しの目をしていた。気がついたら身体が動いていた。
「ねえ、あんた、私と暮らす?」
 少年に近づいて、目線を合わせ、問うた。睨むような眼が、驚きに変わった。
「ちょっと、あなた正気?」
 一番うるさく言っていた婆が私に詰め寄る。「やめておけ」「反対だ」「結婚はしているのか」とざわつく周り。ほらこうなった。もうこうなれば勢いだ。私は立ち上がり、「父の遺言なので」と言い放った。嘘だった。けれどそれが一番何も言われない理由になると思った。そんなことで黙るような人たちではなかったけれど、ここで引き下がる訳にはいかない。遺言書でもあれば何も言われないのだけれど。
「おじさん、言ってた。この人がむかえに来るって」
 もう、無理矢理この子を連れて出て行こうかと考えていた時、少年が立ち上がり、私のスカートの裾を掴んでそう言った。一瞬、場がしん、と静まった。誰もが、誰かが何かを言うのを待っていた。
「おい坊主、お前はそれでいいのか」
 一瞬の静寂の後、棺の一番近くにいたお坊さんが口を開いた。少年を見ると、しっかりと首を縦に一回、振っていた。
「よし、じゃあいいじゃねえか。この話は終わりだ」
「ちょっとあんた!勝手に決めてるんじゃないよ」
 またあのお婆さんが言うと、それに乗っかり次々と口を開き始める人たち。
「ああもう、お前ら少しは黙れよな。さっきからうるせえんだよ。死人に笑われるぞ」
 お坊さんが、面倒くさそうに頭を掻きながら言う。それに反応してまたガミガミと話し始めるお婆さんだったが、二人の会話は次第に普段のお坊さんの行いについての話になっていて、いつの間にかこちらを気にするものはいなくなった。暫くそれを眺めていた私だったが、お坊さんと目が合い、顎で「帰れ」と出口の方を刺されたので、それに甘えることにする。少年の腕を取り、出口へ向かう。私は振り返らずに、歩いた。
「ねえ、ほんとにおじさんのゆいごん?」
 式場から外に出ると、少年が尋ねる。
「あれ、嘘」
「ぼくのも、うそ」
「嘘も方便ってやつだね。あそこではあれが一番いいと思った」
 私が歩き出すと、少し後ろを少年がついてきた。
「ねえ、どうしてついてきたの?」
「べつに、だれでもよかったんだ。ただあのばしょにいたくなかった」
 ああ、子どもは正直で楽だ。会話が心理合戦にならない。
「だから、今からしせつに行ってもいいよ」
 前言撤回、子どもだろうが大人だろうが、人対人は常に心がついて回る。私は振り返り、少年が立ち止まる。風が吹き、私たちの間を桜の花びらが通る。あの場所にいたくなかったは本当だろう。ただ恐らく、「誰でもよかった」、は嘘だ。小さな手が、拳を作って震えている。こんな春の陽気に、寒いはずがない。
「私はあの人の血を分けた娘だ。あんたのことは正直何にも知らないし、どうでもいいと思ってる。私は他人に興味がないし、優しくないし、多分、親にはなれない。施設に入れた方がちゃんとした子に育つし、幸せになれるかもしれない。ただ私はその目を知っていて、少しだけどあんたの事を可愛いと思う。たったそれだけだけど、一緒にきてくれないかな」
 一気にそう告げた。少年は目をぱちくりさせていた。
「つまりお姉さんは、ぼくといっしょにいたいってこと?」
 こてん、と首を傾げて問う少年に「そういうことにしておいてあげる」と言った。少年が笑い、つられて私も笑った。自然と手が伸び、その手を少年がとる。私たちは並んで歩きだした。
 世間的に考えれば、私が引き取るのは間違っているだろう。けれど、世間がなんだ。それは私を助けたことがあったか。私は私の心を自分で守る。そして、この小さな手だけは離れないでと祈った。

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