Overflow

これでもかというほど想いは溢れるのに言葉が生まれない。何も書けない。どうすればこんなにも苦しまずに済んだのか。どうして人は生きるのか。夢は何か。どう生きればいいのか。気がつけばそういうことばかりを書いている気がするんだ。
どうして人は生きるのか、どうしてこんなにも寂しくて苦しくて悲しいのか。そういうことに、気がつかずに生きている人を羨んだりしたことはなかった。むしろそういう人を哀れんだりした。私はずっとそういうことを考えて生きていたから、みんなそうだと思っていた。けれど違っていた。何も考えずに人生楽に生きている人間はいる。何も考えずに生きられる人間はいるんだよ。そういう人たちに、私は傷つけられ、苦しめられているんだ。それを嫌に感じたことは一度もなく、私は私の理由もなく苦しい感情や悲しい感情、生き方がわからなくなったりすることについて、そういう負のことを考えたり感じたりすることはとても大切なことだと思っていた。負の事と向き合う事は大切で、苦しいのだけど、それが無くなってしまうことが私にとっては一番恐ろしいことだった。死にたい気持ちとか、誰かを殺してやりたい気持ちとか、憎しみとか、蔑みとか、憤りとか、怒りとか、寂しさとか、無くしてしまえばきっと私は死んでしまう。それこそ、書くことが無くなってしまったら、生きている必要はなくなる。

ずっと山椒魚でいる必要はないのだけれど、飛び出して変わってしまうのが恐ろしい。ずっとこのままでいれば、きっとまた退屈で死にそうになるのだろうけれど、飛び出して私自身が変わることが何よりも恐ろしい。昔からずっとそうだ。私はずっと、今この瞬間の、私自身の気持ちを忘れて、この世から完全に消えてなくなるのが怖くてたまらないんだ。中学生の私も、高校生の私も、短大生の私も、もっと小さかった頃の私も、みんなみんな恐れていた。その感情さえも、忘れてしまうのだけれど。不意に思い出した時に、とても悲しくなって、生きていけなくなって、泣きたくなるんだろうね。忘れていく、忘れられていく。それはやはり死と同じだ。死ぬのなんて怖くなかった。でもそれは自分が死んでしまうなんて思っていなかったから。死を近くで感じて初めて、死が怖くなった。ああ、こういうことか。それはとても言葉にできないほどのものなんだ。

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