私の話 ①家族について

PRIDE week🏳️‍🌈ということもあって、自分についての話をこの期間は書こうかな。
あ、ご無沙汰してます!

首と肩をやってしまって、しばらく土日は静養にあてていました。
ようやくタイピングしても腕がプルプルしなくなってきたので復活です。
言いたいことが溜まりまくってまるよおお!
というわけで、PRIDE week🏳️‍🌈のこの期間は、私の話をしていきます。

 PRIDE week🏳️‍🌈とは

声をあげる。世界を変える。Our Voices, Our Rights.

興味ある方がいらっしゃったら是非サイトを覗いてみてください。
私はALLYであり、うちの会社もスポンサーです。

ということで今日のお話は、家族の話。

私は家族に対して良い印象がありません。
でも、私というアイデンティティを作る上で、育ってきた環境は通過点でもなんでもない、とても大事な時間であり、大事な場所だったので、今日は書いていこうと思います。

■家族構成


父・母・姉・私・愛猫。
姉は私が生まれる7年前に9ヶ月で他界。染色体異常だったそうです。今の時代だったら重度身体障害者として生きてたようだけど、当時の医療では難しかったみたいです。生まれてすぐに泣くことができず、そして自分の力でミルクを飲むことができず、鼻腔からの経管栄養で生きていました。母がシリンジ(注射器)を使って在宅でミルクを与えていたようです。今でも残る姉の写真は鼻腔から管が入っているもの。今の医学だったらどうだったんだろう。と幼い頃からずっと思ってました。後に福祉系の道に進むのも少なからず姉の影響はあったかもしれません。

■父と母


いわゆる、とても仲の悪い夫婦です。
なぜ離婚しないの?何度も何度も言ったことがあります。その答えは「あなたとお姉ちゃんがいるから」との母の回答でした。

小学生の頃、友人のご両親をみて驚愕しました。外で手を繋いでたんです。私は世の中のお父さんとお母さんは、怒鳴りあって癇癪を起こしたり、お皿を投げつけあったり、料理をひっくり返したり、箸が飛んできたり、暴言があったり、壁に穴を開けたり、怒って荷物をまとめて出て行ったりするのが普通だと思っていたので、手を繋いだりなんて以ての外。考えられませんでした。
まだ小学校低学年の頃、友人に勇気を持って聞いたことがあります。「お父さんが壁に穴を開けたりしないの?」と。友人のきょとんとした顔を見て、「ああ、うちって普通じゃないんだ。誰ともこの辛さを分かり合えないんだ」と悟りました。当時山梨の田舎に住んでいたので、同時に「うちの実情を人には話してはいけない(すぐに噂になるので)」と悟りました。
中学で横浜へ引っ越してきて、部活の帰り道。外が真っ暗になる時間に、カーテンも閉めずに電気をつけたまま激しく怒鳴り合い、お皿のガチャンガチャンと割れる音があるお家からしてきました。私は嬉しくなって、自宅に帰るや否や「おんなじ家があったよ!!」と母に言ったこと今でも鮮明に覚えています。

中学生になると、父の癇癪はエスカレートします。これまでは暴言ですんでいたけど、足で母を蹴り飛ばすようになりました。
母は大声で泣いて、癇癪を起こし、狂ったようにタバコを吸って気を紛らわせていました。

■幼少期の私


そんな環境の私。
小さい頃にハマったのは、シャーペンの芯を折り続けること。
そして、両親の喧嘩が始まると無意識に髪を抜くようになりました。つむじが円形脱毛症のように薄くなってきてしまって、抜くことをやめ、傷をえぐったり瘡蓋を剥いだりするようになります。
これは今思うと、2つ目的があって、一つは大量に捨てられている髪の毛を見て、両親に私の辛さを理解して欲しかった、そしてもう一つは、痛みで怒りのコントロールをしていたことがあると思います。
髪は抜きすぎると、生えなくなることを小学生ながら理解したので、小学校高学年以降は、わざとアザを作り傷口をえぐる、最終的に自傷行為に発展します。
結果として大量の髪の毛がゴミ箱に捨てられていることも、子供が傷だらけになっていることも気づかれなかったので、両親に向けてこのような抵抗を
するのはやめようと思うようになります。(ただ自傷行為だけは24歳くらいまではやめられませんでした)そんな幼少期でした。

■父と嘘


まだ私が幼稚園生の頃、癇癪を起こした父は座卓に穴を開けまくりました。
もう使うことが出来なくなってしまった座卓をある家具屋さんへ持っていくことになりました。そのとき私も一緒に連いて行くことになりました。
行きの車中で、「いいか、お前は兄弟がたくさんいることにするんだ。遊びがエスカレートして(金槌とかで)ボコボコ叩いてこんな風にしてしまったと。そう言いなさい。」と嘘をつくよう言われました。
父は声を荒げたり物を壊したりして怖いので、私はそのように店員さんに話しました。その時の店員さんの顔は覚えていませんが、帰り道に「よくやった」とイトーヨーカ堂のイートインスペースにあるアイスクリームショップでアイスを買ってもらいました。私は父が好きだったチョコミントのアイスを選んで、「美味しい」と言って食べました。父は笑っていました。

■好きなものを「好きだ」と言えない


父は私がチョコミントアイスやメロンパンが好きだと今でも思っています。
私がチョコミントアイスを選ぶのは、もちろん好きだけど、父が好きな味だから。本当は、バニラソフトが好きで、いつも食べたいと思っていました。
メロンパンを選んでいたのは、値段がほかのパンよりも安くて、カロリーは他のパンに比べて低いから。本当は揚げパンの中にホイップがたっぷり入ってるやつが食べたかった。でも高いし、カロリーが高いからまた「デブ」って言われる。それが嫌で、私はそこそこの「メロンパン」をいつも選んで買ってもらっていました。
もちろん、メロンパン、好きだけどね。

なので今だに私は、好きなものを買ってもらったり、食べたいものをご馳走してもらうことが苦手です。
欲しいものを欲しいって言えないのは、嫌味を言われると、本当に欲しかったものを手に入れても罪悪感で悲しい気持ちになってしまうから。本気で喜べないから。人に何かを買ってもらうときには、大して欲しくもないけど、買ってくれた側が満足しそうなものや(ネットで「プレゼントで喜ばれたものランキング上位のもの」を予め調べておいてそれを注文する)値段が高くもなく、安くもなく、相手が「良いものだけど買ってあげてよかった」と思いそうなものをチョイスしてしまいます。
食べ物だったら、値段とカロリーを必ずチェックして後悔しないものを選んでしまう。
なので、私は誰かからプレゼントをもらったり、ご馳走してもらうのはいまだに苦手。
欲しいものは自分で買うし、食べたい物は自分で買う。これが1番平和で幸せなの。

■学歴/年収/人と違うことをすること


父は母のことを学歴で罵倒します。中卒のお前に言われたくない、偉そうにするんじゃない、中卒のくせに。など。
そして、私の養育費については、どちらのお金で買ってやった、ということで喧嘩をします。給食費や、習い事代はもちろん。こないだ○○←私 に買ってやったあれは俺の給料から出してやった、私のパート代で出してやった、みたいな感じで。
ちょっと良いお肉を買ってきたときなんてひどいもの。
良い肉を買ってきてやった。お前の(パート代)安月給で食えないだろうな、などなど。
中学生になって吹奏楽部に入ります。母も吹奏楽部で、当時クラリネットを吹いていたお話を聞いて、私もクラリネットを担当します。そこそこ強い学校だったから、みんなまずマイ楽器を購入する流れになります。そこから、まあ、大変。
「入部させたのは母のせい、お前がそんなもんすすめるから」と怒鳴る父。
泣き喚く母。癇癪を起こす私。
結果的に、推奨されているものより少しグレードの低めの楽器を買ってもらうことになりますが、しばらくはずっと嫌味の日々。
そこから、「せっかく買ってもらったんだから頑張らないと」とめちゃくちゃ練習して、soloの曲をもらうようになったり、部長になったり、アンコン(アンサンブルコンテスト)に選ばれたり、高校からオファーが来たりします。父は活躍を喜んでくれましたが、母は良い顔をしませんでした。目立たずに普通でいてくれ、といつも言われていて、「普通ってなに?」とだんだん母と距離が遠くなって行くのはちょうどこの頃からでした。

■男尊女卑


私が今このALLYをやっている根底にあるのがこれでした。
家庭の中で父は私たちが食べていくために必要なお金を稼いできてくれるから1番偉い人。稼いでない人は偉くない。だからご飯も父の帰宅を待つし、お風呂やトイレも父が1番。権限は父にあり、従わないといけない。
そう思っていましたし、そう、思わされていました。
母は家庭環境の複雑さから、高校中退し、すぐに働きに出ていました。父からして見れば、女に学力はいらない、とどこかで思っていたようでした。
女らしさ、男らしさみたいな教養もずっとついて回りました。
バービーちゃんとか、シルバニアファミリーとか。興味なかったけど喜んだふりをしていました。
幼少期から私は体格が父似で、がっしり体型で背も高く、決して華奢ではありませんでした。いわゆる可愛らしい洋服が似合わず、太ると「デブ」「○○ちゃんは可愛いのに」と比べ続けられました。

私はそんな父を憎んでいましたが、女だって誇れる生き方をしたい。力は負けるかもしれないけど、いつかギャフンと言わせたい。そう思って今も生きています。

■高校〜社会人3年目


こんな状況の我が家なので、私は高校生の頃からいかに早く家を出て自立するかしか考えていませんでした。
いつかのnoteには音大を諦めた、ということも書いていますが、親からお金の援助を受けながらやりたいことを4年もやり続ける自信が私にはありませんでした。早く自由になりたかった。ミスも失敗も自分で責任取るから、嫌味を言われることなく、自分の力で挑戦したかった。
なので、高校3年の時に公務員試験を受けます。塾代はバイト代を貯めて自分で払いました。残念ながら逃げるように受けた試験は受かるわけもなく。
途方に暮れた私は、好きなこと(音楽)ができて×学費が安い=福祉の専門学校へ通うことにします。当然、学費も色々言われたくなかったので、週4でバイトして、自分で払いました。

就職と同時に私の一人暮らしへの計画はスタート。
23歳、社会人3年目の年に家出するように無理やり家を出ます。
実は私が専門学校に通い出すあたりから母の依存がひどくなり、駅で私が帰ってくるのを待っていたり、バイト帰りにバイト先に迎えに来たり、
少しでも帰宅が遅くなると鬼電。当時仲の良かった男性を「こんな時間まで連れ回して何考えているの!」と殴ってしまうことまでありました。(土下座する友人を蹴って罵声している母のことは今でも忘れられません)
夜勤明けには職場に電話をかけてしまっていました。「定時が10:30なのにまだ帰ると連絡が来ない。もう11:30なのに。」と。当時の上司からは、仕事を任せたいけど母ちゃんが心配しちゃうから任せられない、とまで言われました。

母は自分の叶えられなかった未来を私の未来に重ねていました。
同時に生きることのできなかった、姉の未来も私の未来に重ねていました。
あなたの幸せは私の幸せ、なんてよく言われてました。このままこの家にいたら気が狂うし、私の人生なのになんで親に引かれたレールの上しか歩ませてくれないの、と思い、早く自立する、が当時の私の目標でした。

■母との関係


そんな母ですが、私が一人暮らしをする時にたくさんの心配と、たくさんのアドバイスをくれました。今は身体を壊し一緒にどこかに出かけることなんて一年に1度あるかないかですが、当時一人暮らしを始める時に買ってくれた家財道具は今でも大事に使わせてもらっています。
少しずつ私への依存が消え、病気を患い、自分がどう楽しむか、に気持ちをシフトして今は楽しそうに生きてくれてます。
リウマチだし、パニック障害だし、不安症だし、家の外には出れない引もこもりになってしまってからだけど、自分の好きなことを自由に調べたり、見たりしているから、ちょっと安心してしてみています。
母に対しても私は本音で話せることはないけれど、どこか少しだけ心を許していて、同志のような感覚でいます。通院の付き添いのためだけしか会うことはないけれど、このくらいの距離感が、母とはちょうどいいと思っています。

■父との関係


私が25歳の時に整体院を開業。自分の力で自宅にサロンを出せたことに、父はなにも言いませんでした。何も言わないってことは認めてくれたということで、定期的に私の施術を受けてくれるようになりました。

3年前にばあちゃん(父の母)が亡くなった時に、父と丸3日一緒に過ごしました。この時に少し小さくなった父の姿や、姪っ子に遊ばれる父が見たことないような顔で笑っていたことに切ない気持ちが込み上げてきました。
そしてばあちゃんの亡骸とお酒を3人で飲みながら「お母さんとお父さんがこんなで(いつも喧嘩ばかりで)娘のお前には申し訳ないと思っている。結婚に対して良いイメージが持てないのもお父さんのせいだと思っている。本当にすまない」と謝られました。
私は泣きそうになるのを堪えてお酒を一気に飲んで、そんなことないよ、こちらこそここまでありがとう、と精一杯の返答をしました。

元々本音で私の気持ちを話すことはなかったので、いまだに、父の喜ぶことをしたり、喜びそうなことを言ったりすることは無意識にしてしまうので、とても疲れます。ですが、明らかにこの日から父に対する見方が変わって、不器用さだったり、本音が言えない弱さだったりが理解できました。
許したわけではないけど、私が仕事で活躍する姿を見て、「女だけど大したもんでしょう?」と今は言えるくらいになりました。

■まとめ アダルトチルドレンの両親を抱え。


そんな感じで、私にとって家族は結構辛いもので、自由を奪うそんなものにしか思えません。自由でいる今が幸せすぎる。

こんな家族の元だから、私の異常な自立心が生まれ、無意識に人の顔色を読んでしまうようになり、そして男性だから、女性だからという男尊女卑の考えがこの世の中から早くなくなるようにしていきたい。そんな風に思っています。

こんな普通でない生き方をしてきたから、私の価値観あって、この価値観は人に理解してもらえないことを小学生の頃に早くも悟っているので、誰かに理解してもらいたい、という気持ちはそんなにありません。何よりもこんな自分でもなんとかやってこれたこと、そして今は自分の価値観を仕事内外で話すことができるまでになったことをすごくすごく褒めてやっています。
自分で褒めないと誰も褒めてくれませんからね。w

まあ、こんな感じで、家族のお話でした。

次回はセクシャリティ感することとか、ジェンダーに関することとか、ALLY活動の内容だったりを話そうかな。

ということでちょっと(かなりだいぶ)重めの内容でしたが、
お読みいただきありがとうございました!




※2021年5月16日 追記
親愛なるキコノヒトさん。
本当にありがとうございます。




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