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シャボン玉のような中で生きている 多様性を生きるためには

「この世界」は「誰もが同じ世界を生きているようで、全く違う世界を生きている」

当たり前のようでいて、目の前の日常がその言葉を忘れてしまう。

同じ環境と言えるのか

『生物から見た世界』 ー見えない世界の絵本
ユクスキュル / クリサート著
日高敏隆・羽田節子訳
岩波文庫

「客観的」な世界、「環境」が重要な科学で、「主観的」を軸に覗く世界を、興味深い言葉と挿絵で綴られている。

カラー本があれば面白そう。

私たちは「客観的」な「環境」に生きているようで
現実は、「主体」が「主観的」に創り上げた世界を生きているという。

この見え方には、日常の不満溢れる現実からは、ちょっとした変換の見え方、コツが必要に思う。

野原に住む動物たちのまわりにそれぞれ一つずつのシャボン玉を、その動物の環世界をなしその主体が近づきうるすべての知覚標識で満たされたシャボン玉を、思い描いてみよう。われわれ自身がそのようなシャボン玉の中に足を踏み入れるやいなや、これまでその主体の周りに広がっていた環境は完全に姿を変える。カラフルな野原の特性は、その多くが全く消え去り、その他のものもそれまでの関連性を失い、新しいつながりが創られる。シャボン玉の中に新しい世界が生じるのだ

生物から見た世界 ユクスキュル/クリサート著 日高敏隆・羽田節子訳 岩波文庫

私たちが見えている「蝶」は、私たちが見えている「野原」という「環境」に「蝶はいない」。

「蝶」は蝶の知覚の「環世界」、独自の「シャボン玉」のような中で生きているというのだ。

ハエやダニ、犬も鶏も私たちとは違う世界を生きている。

マダニは18年間、絶食できるとある。
最高の獲物に対してそれだけ待機できるというのだ。

私たちが見える野原の彩りも、紫外線が見える生物には全く違う色が見えている。

私たちが見えている花の蕾。もうすぐ花が咲く喜び、花粉も想像できるけれど、生物には蕾の形は全く関係のないもの。

それぞれのシャボン玉に入ってみれば、全く別世界。

私たちもシャボン玉の中

これは私たち人間も同じなのではというのだ。

人間みんな同じ「シャボン玉」ではなく、あの絶妙な色合いの「シャボン玉」の中を各自が生きているのだろう。

街の一本の「大きな樹木」に対した喩えが面白い。

樹を管理するものにとっては、樹の「大きさ」が重要で、「切る」という対象だが、そこに魔術的な「精霊」を感じる少女には、樹は「祈り」の対象である。樹を切っては大変であろう。生物にとっては住処である。

そのシャボン玉の中で起きている「感覚」「知覚」は人それぞれ。

過去の経験なども含まれるのだろう。

勝手だな
って感じる相手のシャボン玉も興味を持って覗いてみれば、腹も立たないのかもしれない。

新しいつながりへ変換できる。

最近の身の周りのつながりが、どこか懐かしさを感じる機会が多い。

またここへ

といった不思議な感じが、静かに私のシャボン玉の環世界を生きていることを見せてもくれている。

これからの多様性時代、理解し難いコミュニケーションに、この視点はお互いが楽になりそうだ。

風が吹けば消えてしまう儚いシャボン玉、あのタイミングよく見える色合いのシャボン玉という例えが、繊細な私たちを表現するようで素敵に思う。




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