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パチンコ依存症の両親と、僕。

小さい頃、土日といえば両親のパチンコに付き合う日だった。
毎週土曜日になると、朝早くに起きて開店と同時にパチンコ店に入店する。そして閉店まで打って、帰りの車の中。
家に到着するまでの15分は、ずっと勝った負けたの話をしていた。
日曜日は昼過ぎまで両親は爆睡し、僕は7時半から始まる戦隊モノを見て、
仮面ライダーを見て、ワンピースかそのあたりのアニメを見て。
それでも手持ち無沙汰になったら、たいていゲームボーイか64をしていた気がする。

行きつけのパチンコ店は3店舗くらいあった。
ひとつは家から車で15分のところにあるA店。一番良く通っていたところ。
もう一つは車で30分の隣町にあるB店。ちょっと遠いけど、ここには休憩室があった。
C店も車で30分くらいのところにあったと思う。子供には高すぎるバーカウンターみたいなイスとテーブルのある休憩スペースがあった。

僕はどのパチンコ店も嫌いだった。
うるさくて、臭い店内に一日中いることが嫌だったし、自分をほったらかして一日中パチンコをしている両親を見ているのも嫌だった。
何度か「今日は行きたくない」と駄々をこねることもあった。
パチンコに行くくらいなら、一人でも家で過ごしたかったから。
そうして、僕だけ家で留守番をすることもあった。
僕が留守番をしている日は、両親も20時とか21時とか、ちょっと早く家に帰ってきた。
当時は自覚していなかったけど、もしかするとパチンコについて行きたくないんじゃなくて、両親に早く帰ってきてほしくて留守番をしたがったのかもしれない。
でも、たいていの場合、母も父も僕を説得して連れて行った。パチンコ依存症でも、子供を一人にするのは心配だったのかもしれない。行きたくないと駄々をこねると、二人して一緒に行こうと説得してきた。

A店の隣に本屋があって、店から歩いて10分くらいのところにゲームショップがあった。
パチンコに行くときはたいていゲームを持っていったけど、何時間もしているとどうしても飽きてしまう。
そういう時は、親から1,000円貰って、隣の本屋に漫画を買いに行った。
お気に入りはドラえもんだった。小さな僕でも読みやすくて、ひみつ道具が出てくるのも面白かった。
1,000円で買える漫画は2冊だけ。だから、潰せる時間はせいぜい1時間くらいだ。
ある日、買ってもらった漫画を読み終えて、ゲームもする気になれなかったのでまた両親に1,000円をねだった。そしたら、ちょっとイライラした口調で「もう読んだの?」と言われながら、1,000円札を渡してきた。この日から「漫画は一日一回までしか買わないようにしよう」という自分ルールを作った。
ドラえもんを発売済みの45巻まで買った僕は、なるべく長い時間読める漫画を探し始める。巻数と内容の濃さで買い始めたのはこち亀だった。当時でも100巻以上出ていたこち亀は、ドラえもんよりも長い時間つぶせる。毎週のように漫画を買ってもらううちに、僕の家のトイレには何十冊の漫画が置かれるようになった。
(当時、トイレに棚を作って漫画を置いていた)

でもやっぱり、漫画だと潰せる時間も限られてくる。
小学校に上る前からパチンコについていき、何年も付き合っているうちに小学3年生位になっていた。そうすると、漫画以外の本も読めるようになる。
文字だらけの本のほうが、漫画よりも時間を潰せる。そう思って、漫画以外で初めて買った本が乙武洋匡さんの『五体不満足』だった。
この本は、小学生でも読めるように漢字にルビが振ってあって、とても読みやすい。内容も面白くて、かなりの時間を潰せるからすごい!と思った。
もともと母は本を読む人だったから、漫画に出す1,000円と、活字本に出す2,000円だったら、2,000円のほうが気前よく出してくれる。
だから僕も漫画以外の本も読むようになって、家の本棚に活字の本が並ぶようになった。

たいてい、どこのパチンコ店にも子連れはいる。そして、どの親もパチンコ中は子供をほったらかしにする。だから僕はA店、B店それぞれに友達がいた。
B店では、僕と同じくらいの年齢の女の子がいて、よく二人で店内の休憩スペースで話をしたり、駐車場でかくれんぼをしていた。
A店には、メガネをかけた少年がいた。A店に行くペースが早いので、メガネくんとは結構仲良くなった。
その店の近くに、用水路があって、よく二人でザリガニ釣りをした。
隣の本屋に行くときも、一緒に行って店のおばちゃんと話し込んだりしていた。
メガネくんも僕と同じゲームボーイカラーを持っていて、よくゲームを交換して遊んだ。
でも、両親はメガネくんと遊ぶのも、本屋のおばちゃんと仲良くするのも快く思わなかった。
メガネくんは「僕を悪い道に連れ込もうとする子供」に見えていたし、本屋のおばちゃんは「親の悪口を子供に吹き込む嫌な人」に見えていたらしい。自分たちがいちばん「子供の教育に悪いことをしている人たち」なのに。

パチンコに勝った日にはおもちゃやゲームを買ってもらえた。
焼肉や寿司も食べられた。でも、負けた日は何もない。
負けて八つ当たりをされた記憶はないけど、負けた日の両親は帰りの車の中でずっと「あの時やめていればよかったね」「あそこで手を引いておくべきだったんだよ」「そんなこと言ったって」みたいな、傷をなめ合うような、互いのミスを押し付け合うような会話ばかりしていた。
そういう会話を聞くのが嫌で、車の中はずっと寝た振りをした。
もちろん、ずっと勝ち続けられるほど甘くはない。

小学5年生の時、僕の家は破産した。
負けが続き、勝ち分がなくなり、
それでもパチンコに行かずにはいられない。
まごうことなきパチンコ依存症になっていた両親は、
借金をしてまでパチンコに通っていた。
そして、どうにも首が回らなくなり、ついには破産せざるを得ない状況になった。
ローンで買った家を売り、僕たち家族は祖母の家に転がり込むことになった。
それほどの状況になっていること、破産が必要なこと、破産とはどういうことなのかを、両親は僕に説明してくれた。
母は泣いていた。でも、僕も泣いていた。
あのときほど、両親を恨んで、泣いたことはないと思う。
5年間一緒に遊んだ友達と離れ離れになって、同じ県内とはいえ全く知らない土地に引っ越し、また新しく友達を作らなくてはいけなくなる不安と怒り。
泣きながら「引っ越したくない」「友達と離れたくない」と訴えた。
せめて中学に上がってから。両親にも、そんな思いがよぎったかもしれない。
それでも、その1年さえも。待つことさえ出来ないくらい、借金が膨れ上がっていたんだと思う。
その証拠に、僕は小学5年生の夏休みという、明らかに不自然な時期に転校した。

すべてを失った両親は、知人の紹介で占い師を頼ったこともあった。
僕は車の中で終わるのを待っていたけど、戻ってくるなり早々に母から「あんたお坊さんになるらしいよ」って言ったことだけは覚えている。
破産までして、自分だけじゃなくて子供の人生までめちゃくちゃにしているのに、憑きものが取れたみたいな清々した顔をしていた両親を見て、なんとなくいやな気持ちになった。
何を言われたかは知らないけど、僕はお坊さんになっていないから、あの占い師もたいしたことはない。

転校先の学校では、同級生に「なんでこんな時期に転校してきたの?」と口々に言われた。そのたび僕は、親から言われたとおり「転勤が決まったから引っ越ししてきた」と嘘をついた。子供でもわかる嘘だ。こんなタイミングで、しかも県内で、転勤が理由で引っ越すことなんかまずない。どんなに遠くても、車で1時間も走らせれば仕事に通える。それでもその嘘をつき続けた。そんな嘘をつかせる親が憎くて、そんな嘘をついている自分が惨めで仕方なかった。自分の部屋はなくなったし、飼っていた犬も経済的理由から知り合いに譲り、まだ新しい家も古くて狭い家になってしまった。自分は何も悪くないのに。こんな家に生まれなければよかった。もっとまともな親の子供に生まれたかった。何度も、何度もベッドの中で考えていた。

その反動は、反抗期にちゃんとあらわれた。もう、荒れに荒れた。自分が行きたくて、お金がないのにせがんで入れてもらった私立の中学も、週に一回は仮病で休んだ。毎週月曜日は、母と僕の戦いだった。ある日、大喧嘩した僕は近くにあったプラスチックの衣装ケースをぶん投げて、母に当ててしまった。頭から血を流して、うめきながらうずくまっている母を見ても「こんな人生を送らせてる俺のほうが被害者だ。自業自得だ」としか思わなかった。母は自分で救急車を呼び、近所に住む母の兄に連絡した。救急車が来る前におじさんが来て、僕に何かを喋ったけど内容は覚えていない。僕は救急車に乗ることなく、部屋にこもって固まっていた。「なんで俺が」「お前らが悪いんだ」「ちゃんとした人生を送れていたら、俺だってもっとちゃんとした人間になっていた」言い訳ばかり考えながら、救急車の音が遠ざかるのを聞いていた。

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あの後も、すぐには変われなかった。毎週月曜日に休むのは、中学2年に上がるまで続いていたし、反抗期も長いこと終わらず、素直にありがとうもごめんも言えずに育ってきた。
ただ、だんだんと学校をサボる回数が減り、1年間まともに行ったことがなかった部活にも行きはじめた。
時間をかけて、ゆっくり、ゆっくりとだけど「自分の人生」を親のせいにしなくなった。

僕は、パチンコをやらない。両親に連れられて行っていた時は、スロットの目押しが得意だったけど、20歳を過ぎてもパチンコ店に入ったことはない。
100%反面教師だ。大酒飲みでヘビースモーカーだった両親を見ていたから、僕は酒もタバコもやらない。やりたい気持ちにならないけど、もしかしたらこれも、無自覚の意地かもしれない。

今も僕の家は、祖父母の家だ。祖父母が亡くなり、今では母と妹が住んでいるけど、帰省した時はこの家に帰る。ボロくて狭いなって思うことはあるけど、恥ずかしいとか嫌な家だなって思うことはなくなった。

僕は、パチンコが嫌いだ。パチンコにハマった両親が嫌いだ。今でも、過去に戻れるならパチンコを辞めさせたい。
でも、パチンコにハマって、破産して、引っ越しをしたからこそ歩んでいる人生がある。
転校先で出会った友達は、社会人になった今でも馬鹿なことを言い合える仲だ。あのまま前の学校に通っていたら、絶対に出会えなかったと思う。
その友達が行くという理由で、自分も行きたくなった中学でも、本当にいいヤツに出会えた。その学校は大学進学が前提だったから、僕も何の迷いなく大学に進む前提で勉強ができた。地元中学に進んでいたら、高卒で働くのが当たり前の地域だったし、大学なんて考えもしなかったかもしれない。
大学に行かなかったら、上京もしなかっただろうし、コピーライターにもなれなかったかもしれない。
むしろ、「コピーライターになりたい」という夢さえ、見つけられなかったと思う。
漫画も好きにならなかったかもしれないし、ザリガニの釣り方を知ることもなかっただろう。五体不満足で本の面白さに気づくことなく大人になり、学ぶ楽しさを知らない人になっていたかもしれない。
PS5を買うほど熱中できるゲームにはまらない代わりに、違う趣味を見つけていたかもしれない。
写真じゃなくて、キャンプがスキになったかもしれない。
あのまま犬を飼っていたら、猫派じゃなくて犬派だったかもしれない。

いくつもの「かもしれない」を通り過ぎて、僕は、僕の人生を歩めている。
大きく方向転換した僕の人生を、自分の足で歩けるように、
母と父は節目節目でいろいろな支援と後押しをしてくれた。
父と離婚した後も、女手一人で母は支えてくれた。
両親に「あなたたちにパチンコ依存症があったから、今の僕の人生があります。ありがとう」なんて、綺麗事は今になっても絶対言えないし、
言いたくないけど。

けどね、おかん。
俺は、ここまで歩んできた人生も嫌いじゃないよ。

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