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心と言葉と行いの一致

私が苦しみから逃れたい一心で心に関する学びに取り組んでいた頃、いろいろと嫌な事が起こり続けたのをよく覚えています。

もともと私自身の心に問題があったのは自覚していたので、他の人が何とも思わないことでも怒り、恐怖などの感情にとらわれてしまうのは仕方ないと諦めてはいました。

そんなことが度々続きながらも、私はとにかく自分の心と向きあいながら、いろんな本を読み努力を続けていました。

何年か経った頃、心が前よりも乱れなくなり、トラブルらしき大きな出来事もなくなってきたので、どうしてなんだろうと疑問に思ったことがありました。

当時は原因はわかりませんでしたが後に師匠と出会い、学びを深めてどうしてそうなったのか理解できました。

私の心である内側に嫌う心、裁く心が強かったので、外側の出来事をその心で見ていたこと。

だから何事に対しても、否定的にしか見れなかったこと。

神は人を改心させるために、最も効果的な手段を使ってくること。

だから、嫌な事、辛い事などで自身の心と向きあうように仕向けていたこと。

これらは実践、実感という学びの積み重ねがあったからこそわかった事です。
神など信じていなかった私が神を信じるようになったのは何とも不思議な話ですが、信じざるを得ないというのが現在です。

嫌な事、辛い事は心の問題を抱えている限り誰にでも起こることですが、これらも神の恵みであるのでそれらが起こった時ほど真剣に自分の内側と向き合わなくてはなりません。

私もたくさん逃げましたが、逃げるのは自分の幸福を捨てるのと同じです。
だから出来るだけ向き合いつつも、我慢が出来なければ逃げていいと思います。

逃げてもその機会は解決するまでまたやってきます。

神は人を永遠に良くしようと働きかけるからです。

それを繰り返すほど人の心は磨かれ、生き方が変わってきます。

心と言葉と行いが一致しないのが人間だと言われます。

皆さんの周りを見ても言っていることと行動が一致してない人はいるのではないでしょうか?

自分が思うことと、実際の行動が違うということがないでしょうか?

心と言葉と行いが一致してこそマコトであると、日月神示でも言われています。

心が変われば、使う言葉が変わってきます。

使う言葉が変われば、行動も変わってきます。

故に心と言葉と行いが一致してきます。

これがマコトの生き方です。

マコトで生きるとは自分にも、他人にも、一切に対して誠実になることであり、またこの生き方が人の自然な生き方なのだと私は感じています。

日月神示にはこう書かれています。


【月光の巻 44帖】
この道に入ると損したり、病気になったり、怪我をすることがよくあるなれど、それは大難を小難にし、またメグリが一時に来て、その借銭済ましをさせられているのぢゃ。
借りたものは返さねばならん道理ぢゃ。
損もよい、病気もよいぞと申してあろうが。
此処の道理もわきまえず理窟申しているが、そんな人民の機嫌とりする暇はなくなったから、早う神心になって下されよ。
そなたは祈りが足らんぞ。
祈りと申すのは心で祈り願うことでないぞ。
実行せねばならん。
地上人はモノとしての行動をしなければならんぞ。
口と心と行いと三つ揃わねばと申してあること、忘れたか。