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判断を見る

ある人の行為に対してAさんは良いと言い、Bさんは良くないと言い、Cさんはどちらでもないと言います。
 
このようなことは普通にありますが、なぜ同じ行為なのにこうも違ってくるのでしょうか?
 
皆さんも察しのとおり人それぞれに考え方が違うからです。
 
積み重ねてきた体験が違うから当然、考え方も違ってきます。
 
この考え方が事象を見て判断を下しているわけですが、人それぞれ違うということはそれだけの数の判断が存在しているということです。
 
人間は常に判断し、行為していますが自分が何を思い、考え、判断しているかに気づいている方はいるでしょうか?
 
多分、ほとんどの方が思いに任せて、感情に任せて行為しているのではないでしょうか?
 
人間は感情の動物だと言われます。
 
その通りです。
 
人間心とは我善しです。
 
我善し判断は自分が正しい、自分が優先で、自分のことしか見えません。
 
故に自分の外側は悪となり裁く心、憎む心、嫌う心で世界を見るわけです。
 
だから感情的になって当然なんです。
 
このような生き方は日本から外の世界を見渡せばよくわかると思います。
 
最近は日本も例外ではありませんが・・・
 
いずれにしてもあなたの見ている世界はあなたの判断がつくっています。
 
我善し判断で生きれば世界は不満だらけで、喜びを見つけることは不可能です。
 
なぜなら我善し人間は不満の原因を外側に探すからです。
 
外側を探しても決して見つかりません。
 
満足できない心自体が不満なのだから。
 
与えられるもの一切はあなたのものではありません。
 
身体、記憶、考えすらも与えられたもの故にあなたのものではありません。
 
あなたをあなただと思わせているものを与えたのは神より他にありません。
 
あなたの周りにいる人達も神より与えられたものです。
 
世界にあるもの全て与えられたものです。
 
与えられたもの故に思い通りにはならず、ただ眺めているのがあなたです。
 
どこに不満をもつ必要があるでしょうか?
 
満足するかしないか、はあなたの判断で選ぶことが出来ます。
 
与えられたものに満足すれば世界から不満は消え去り、喜びに溢れます。
 
自身の思いに気づき、判断を選んでみませんか?
 
以下は日月神示の一文です。
 
 
日月神示
【下つ巻 31帖】
この神に供えられたものは何によらん、私(わたくし)することならんぞ、参りた臣民にそれぞれ分けて喜ばしてくれよ、臣民喜べば⦿(かみ)も喜ぶぞ、神喜べば天地光りて来るぞ、天地光れば富士晴れるぞ、富士は晴れたり日本晴れとはこのことぞ。
このような仕組でこの道ひろめてくれよ、それが政治ぞ、経済ぞ、まつりぞ、わかりたか。
 
 
【富士の巻 14帖】
臣民にわかるように言うなれば、身も心も⦿のものざから、毎日毎日神から頂いたものと思えばよいのであるぞ、
それぞれの身体をどんなにしたらよいかということわかるであろうが、夜になれば眠った時は⦿にお返ししているのざと思え、それでよくわかるであろうが。
身魂磨くと申すことは、⦿の入れものとして⦿からお預かりしている、⦿の最も尊いとことしてお扱いすることぞ。
 
【雨の巻 16帖】
⦿の守護と申すものは人民からはちっともわからんのであるぞ、わかるような守護は低い⦿の守護ざぞ、悪神の守護ざぞ、悪⦿の守護でも大将の守護ともなれば人民にはわからんのざぞ、心せよ、どんなことあっても不足申すでないぞ、不足悪ざぞ、皆人民の心からぞとくどう申してあろうがな、人民、キから起こって来たのざぞ、我の難儀、我が作るのざぞ、我恨むよりほかないぞ、人民の心さえ定まったら、この方自(おの)ずから出て手柄立てさすぞ、手柄結構ざぞ。
この世のもの一切⦿のものということまだわからんか、一切取り上げられてから成程なァとわかったのでは遅いから、嫌がられても、くどう同じようなこと申しているのざぞ、人民の苦しみこの方の苦しみざぞ、
人民もこの方も同じものざぞ、言(こと)分けて申しているのざぞ。

 
 
【梅の巻 18帖】
自分で自分のしていることわかるまいがな、⦿がさしているのざから、人間の頭ではわからん、仕組通りに使われて身魂の掃除の程度に使われて、使い分けられているのぢゃぞ、早う人間心捨ててしもうて⦿の申す通りに従いて下されよ、それがおぬしの得と申すものぢゃぞ、一家の為ぞ、国の為ぞ、世界の民の為ぞ、天地の御為ざぞ。