見出し画像

気になることは自分があるという錯覚から生まれる

我々の生きている世界には気になることが多過ぎると思いませんか?
と聞くと多くの方がそうだと感じているのではないでしょうか。

実際に世界では様々な事件、問題が起こり続けています。
誰も事件や問題など起こってほしくないのにです。

内側が外側に現れるという原則から見ると、望んでないのに望んでない事が現れるのはおかしいのでは? と思うかもしれません。
事実は望んでいないと思っているだけで、本当は望んでいるからです。

人と言うのは私とう個人があるという前提で生きています。
個人は個人のことを優先して考えるから、まず自分が良くならないと他者のために動けないと言います。

個人の欲には『もっともっと』はあっても『これでいい』と言うのがありません。
個人の欲には『自分さえ良ければ』はあっても『他の人も』と言うのがありません。
これは結果として自分のためなら他者はどうなってもいいということになります。

人というのはあらゆるものの恩恵を受けているから人としてあるのであり、何の影響も受けず個として存在できるものはありません。

故に全体の幸福を望まないと誰一人として幸福にはなれず、全体の幸福を望まないことは不幸を望むのと同じことになるわけです。

私の師匠が『個人などいない』『自我などない』と何度も言っていたのは個という立場自体が苦しみの元凶だったからです。
以下は師匠のお話と日月神示の一文です。

【師匠のお話】
『忘れていたのです』
これがキーワードです。

今瞑想のグルはこう言います。
『現代はあまりにも気になることが多すぎる、だから瞑想が難しい』
気になることが全て消え去った時、瞑想になるのです。

ある人たちはこう言います。
『全て忘れてしまいなさい』と。

ですが忘れろと言われて、忘れられるなら誰でも瞑想を簡単に成就します。
忘れろと言われ、忘れられるなら苦しみもありえません。

ですから、私は忘れろとは言いません。
忘れろとは言わず、忘れさせてしまうのが私のやり方です。
気になる原因を消し去ってしまえば自然に忘れるのです。

自分の状態を気になるのも、世界を気になるのも、個人がいるという錯覚から起きるのです。

私がここで何のために語っているのか、皆さんの気になることを全て消し去る為です。
気になることがなくなればなくなるほど忘れていくのです。

私は見るもの聴くものを忘れているのです。
私がいると言うことさえ、忘れているのです。
気になることがなくなるとそうなるのです。

【サマディーについての質問の回答】
サマディーとは集中ではありません。
集中とは緊張であり、サマディーは緊張ではない。

気になることが消えると心は自然と統一されて来ます。
それがサマディーです。
心のごく自然な状態です。

俊和さん、凡は聖と言っても凡は間接的教えに生きる聖です。
誰でも真我を既に実現にていると言ってもその自覚がありません。
それには心の停止が必要です。

心の停止と言っても、ラジニーシの言うようにすぐには出来ないでしょう。
進まないと言っても進まなくなるには時間がかかります。

だからそこに道が出来るのです。
無意識層まで停止が必要なのです。

催眠術で暗示をかけると、無意識にそれを実行致します。
これは我々は意識していない無意識層が動く証拠です。

ですからどこかに向かうのではなく、停止に向かう必要があるのです。
無意識の領域まで停止した時、凡の聖から聖の聖になるのです。

なろうとしないことが道なのです。
行為者はいないと凡は聖で気になることの全てを消し去ると、真我の自覚が現われます。

そこまで気になることを消し去るのです。
真我の自覚がないと言うことはまだ気になることがあると言うことです。

【黄金の巻 31帖】
人民それぞれに用意してくれよ。
自分出しては集団(まどい)こわすぞ。
力出んぞ。
早うつくれよ。
的(まと)とせよ、と申してあろうがな。
マトは光の射(さ)し入るところ、的として月一度出せよ。
自分の小さいこと知れる者は、神の国に近づいたのであるぞ。

【黄金の巻 90帖】
世界中がいくら集まって、善き世にいたす相談いたしても、肝腎の・がわからんから、まとまりつかん。
だれ一人、悪いわがままの癖持たん人間ないぞ。
その癖直して行くのが、皮むくことぢゃ。
改心ぢゃ。
弥栄行くことぢゃ。
金持つと金の地獄に、理窟持つと理窟の地獄に、神に捉われると神の地獄に落ちて苦しむぞ。
持たねばならんし、中々ぢゃなあ。
まず求めよ、求めねばならん。
まず捨てて求めよ、求めて行ぜよ。

【月光の巻 54帖】
そなたは神示をよく読んでいるが、それだけでは足らん。
神示を肚に入れねばならん。
付け焼刃ではならん。
神示を血として生活すれば、何事も思う通りスラリスラリと面白いほど栄えてくるぞ。
思うように運ばなかったら省みよ。
己が己に騙されて、己のためのみに為していることに気づかんのか。
それが善であっても、己のためのみならば死し、全のための善ならば弥栄えるぞ。
善にも外道の善あるぞ。
心せよ。
神示見て居らぬとビックリが出てくるぞ。
この世始まってないことが出てくるのぢゃ、世界の片端浜辺からぞ。
わかりたか。
そなたは神体を偶像と申して御座るが、それはそなた自身が偶像なるが故であるぞ。
礼拝を忘れ、祈りを忘れることは神を忘れることぢゃ。
そなたの住む段階では、祈り畏(かしこ)み謹んで実践しなければならんぞ。
拝まんでも拝んでいる境地はなかなかぢゃなあ。
そなたは我が助かろうとするから助からんのぢゃ。
世界はこの世ばかりではないことを、よく得心して下されよ。
我をすてて素直になされよ。
三千年の秋(とき)が来ているのであるぞ。