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[ホツマツタヱ 日吉神社+瀬織津姫 六甲比命大善神社+広島原爆ドーム] 日本人の祓いの信仰、そして風化しつつある日本の負の歴史 シベリア抑留と原爆ドーム - 世界中が平和に、人々が平穏に生きるために

日本の正史である古事記や日本書紀とは別に、古史古伝という記紀神話とは異なる歴史や文化を伝承する文献が発見されたのは江戸時代、もうひとつの日本史とも言われるほど日本の神々やその逸話が色鮮やかに描かれています。代表的な古史古伝には上記(ウエツフミ)や太占(フトマニ)といった神代文字で書かれた文書、そして九鬼文書(くかみもんじょ)や竹内文書(たけうちもんじょ)、宮下文書(みやしたもんじょ)、物部文書(もののべもんじょ)といった神代文字や漢字、または漢字仮名まじりの文書があり、天皇(すめらみこ)が天空浮船を乗り回して世界を支配していた等々、超古代時代を背景に愉快痛快な神々の武勇伝が語られています。

本寄稿ではこういった古史古伝に封印されている神様をはじめ、日本人独特の祓いの信仰について、そして風化しつつある日本の負の歴史について紐解いていきたいと思います。 


秀真伝(ホツマツタヱ)
 
神代文字と言われるヲシテ文字で書かれたヲシテ文献の一つであり、古事記や日本書紀の原書となったのではないかという説がある。五七調の歌体は全40綾(あや)でまとめられており、天地開闢から神代時代、そして初代 神武天皇から景行天皇までの天皇記が細かく描かれている。仮にホツマツタヱが真書ということになれば、日本という国の誕生から古代日本文明の発達を明らかにする書物の一つとなりうる。

ホツマツタヱが発見された日吉神社 - 滋賀県高島市安曇川町
ホツマツタヱが発見された神輿倉(写真左)

記紀詩話では天照大神を女神としている一方、ホツマツタヱではアマテル大御神を男神としており、記紀神話には登場せず大祓詞にのみ登場するミステリアスな瀬織津姫と婚姻関係があったと記述されている。また、記紀神話より抹消されてしまった饒速日命をクニテルとして、アマテルクニテルニギハヤヒの氏名をアマテル大御神より賜ったとの記述があり、こういった神話を総合的に読み解いていくと、ホツマツタヱが100% 偽書と断定するには拙速であるとの見解がある。記紀神話の編纂時には全国の寺社仏閣よりこういった古史古伝を集めて制作したといわれており、記紀神話に登場するような史実がホツマツタヱにも多く散見されることに納得がいく。
 
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ホツマツタヱの中では「ハタレ」という、人の心根が極度にねじ曲がった動物の霊魂に支配されている人の例えが度々登場しますが、仏門で説く、我欲や執着をもたらす六根と似ています。六根とは人間の認識の根幹である感覚や意識に迷いを生じさせる6つの器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)を指します。 

ホツマツタヱ 6大 ハタレ
 
シムミチ:嫉妬の心が凝り固まった錦大蛇(にしきおろち)
ハルナハハミチ:功名心が凝り固まった鵺(ぬえ)
イソラミチ:誇る心が強くなった蛟(みづち)
キクミチ:欺く心が群れた狐
イツナミチ:卑屈な心となった猿
アメヱノミチ:他人を軽蔑する心を持つ天狗

ハタレとは、人が物質的にハタレに変身をするのではなく、その人の「心」がハタレとなり、その人の体から抜け出し、人に憑りつく生霊のことです。これはエネルギーヴァンパイアの典型例として、人をいじめるや、人を追い詰める人は追い詰められた被害者から放たれる抵抗のエネルギーを、逆に食べていくといった増強型ヴァンパイアです。サイコパスも同等であり、被害者の抵抗や不安という負のエネルギーを加害者に向けさせることで、その向けられた負のエネルギーを吸収しながら、更にパワーアップしていきます。
 
防ぎ方は簡単です。煽り運転に例えると、煽りを「無視する」のではなく、レーンを「避(よ)ける」だけです。避けることは、その行為自体に全く気が入らないため、取られるエネルギーもありません。逆に無視するということは、無視するという行為に気が入ってしまっているため、やはりヴァンパイアが期待する負のエネルギーを出していることになります。
 
 神道の世界はこういった加害者・被害者の状態が自他ともに起こらないように、「諸々罪枉事穢れを祓いたまえ、浄めたまえ」と日々、自己を浄めていきます。これは、自分自身が無意識のうちに加害者にならないようにという戒めでもあります。また、罪は穢れ(けがれ)として加害者の心をも蝕む気枯れ(けがれ)となっていくため、常に心身ともに浄めておくことで、加害者にも被害者にもならない、すなわち魂と心と体が三位一体となり、いつも自分の中心に自分=神の創造物がいる状態をつくります。これが本来の神道です。
 
更に、アマテル大御神はハタレについて、人間本来の特質である調和の精神を捨て去り、欲望のままに行動している、あまつさえ他人を妬むことにより、人体を構成する五元素の内の「火」に燃え上がり、日々、三度も身の内から焼かれるような苦しみに苛まれていると話しています。
この五元素とは万物の根源的な物質であり、「空・風・火・水・土」です。五大元素と言えば、高野山の五輪塔や新潟県で発見された縄文土器を思い出しますが、後者の縄文土器の場合、を混ぜて器を作り、で器を焼き上げた後、で乾かした容器上部の空間には、(宇宙)が表現されているといわれています。このに表現される宇宙の中で、私たち人間は常に生と死、神と仏と向き合い、そして一つにつながり、日々の3次元を超えた、5・6次元、更には11次元といった更なる高次元の宇宙に意識を向けることでカルマを取り、ダルマを達観していきます。私にはこのホツマツタヱが古史古伝を超えた惟神の道への導きであり、浄土への説法のように思えます。


瀬織津姫(せおりつひめ)

大祓詞に登場する祓戸四神の一柱で、川に坐す水の神としてすべての罪穢れを海に流してくれる女神である。神道の祭祀を司る重要な神様であるにもかかわらず、古事記や日本書紀には一切登場しないため、その素性が分からない封印された神様と言われている。
日本人が古来より持つ考え方の「罪・穢れ・過ち」を祓うための言霊が祝詞であり、特に、常に清らかな気持ちで日々の生活にいそしむよう、自らの心身の穢れ、そのほか、災厄の原因となる諸々の罪・過ちを祓い清めることを目的としているのが大祓であり、その際に奏上されるのが大祓詞である。「疫病や天変地異が起こるのは神様が私たち人間の日ごろの行いに対して怒っているから」というアニミズム的思想が日本にはあり、その怒りを鎮めるためにも大祓の祝詞をあげて、まずは己のその身を清め、浄化させることが平穏を取り戻す最大且つ、最良の手段と考える。

六甲比命大善神社 (ろっこうひめだいぜんじんじゃ) - 兵庫県神戸市灘区
六甲比命講
六甲比命大善神社 祠
般若岩
般若心経が彫られている岩
雲ヶ岩(紫雲賀岩)
法道仙人がこの地で修行中 紫の雲に乗った毘沙門天がこの岩の上に現われたという岩

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高所恐怖症の私にとって、六甲比命神社への道のりはとてつもなく大きなチャレンジでした。「3月にもなると雪はないかな」と、念願であった六甲比命神社へ行ってみましたが、案の定、六甲山頂付近には若干の雪が残っており、必死で本殿の前まで辿り着いたのですが、雪で最後の石段が滑りやすくまた、高さの恐怖からもう一歩のところの足が前に出ず、3メートル手前の位置より、祝詞を捧げて終わりました。
 
再チャレンジを兼ねて5月、前回と同じ轍を踏まないように、地面の状態を足の裏で感じれるような靴で登って行ったところ、気が付くと本殿の最後の石段も難なく踏み込め、気が付くと本殿が目の前でした。

六甲比命大善神社入口
六甲比命大善神社から上へ上る階段
六甲比命大善神社から上へ上る階段
六甲比命大善神社 巨岩

 六甲比命様は瀬織津姫として、知る人ぞ知る場所にありますがそれでも足並みは絶えません。本殿で一二三祝詞を奏上していると、後ろでカタカタと音が鳴りだしたため振り返ってみると、風で紙垂(しで)が重なりあっている音でした。本殿より外に出てみると風が、そよそよと、心地よく流れており、瀬織津姫様も天照大神と同様に風が好きなのかなとおもっていると、今度は部屋の中よりカサカサとなりだしたため、本殿を守っているネズミさんかなと思い、ネズミさんが大国主命を守ったように私も無事、駐車場まで戻れるようにと心願しました。駐車場に戻ってみると、ゼロ台だった駐車スペースに5組ほどが参拝に訪れてきており、六甲比売様へ来れたことに感謝しました。 


広島原爆ドーム - 広島県広島市
 
今となっては歴史になってしまった太平洋戦争だが、そのために多くの人々が犠牲になったことは言うまでもない。令和の時代が始まり、世の中を震撼させるような出来事が次々におこり、想像もつかないことが日々生じる。そういった最中、痛ましい傷跡だけではなく、生きてきた証として残されているのが広島の原爆ドームである。

原爆ドーム
令和4年 原爆ドーム
昭和40年代  原爆ドーム
令和4年 平和記念公園
昭和40年代 平和記念公園

原子爆弾の悲惨さを後世に伝え続けるためにユネスコが世界遺産に登録したが、一部の市民からは、原爆ドームを見るたびに原爆投下の惨禍を思い出すため取り壊してほしいという声もある。決して犯してはいけない不条理な出来事として、また人類が残す負の遺産の象徴として、ひいては永遠の平和を唱え続ける表象として保存されている。
 
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私の父は太平洋戦争の後始末として数年間、旧ソビエト連邦 ウクライナへ戦争捕虜として連れられていった一人です。父親のお尻にはしこりの様な斜めにはいった傷があり、のちに、この傷が戦争で負った銃創ということを知りました。今のウクライナの状態を目の当たりにしながら、戦争がもたらす恐怖感、悲壮感、そして終わりのない失望感を、父がどのように受け止めてきたかを考えます。

「零下40度を超える寒さの中でオレは生きてきた」という言葉が口癖だった父は、寒さと飢え、重労働、そして仲間の死について話すことがありました。当時の私は幼かったためか、話を聞いても実感がなく、ようやくシベリア抑留について理解できるようになったのは、父のお葬式に参列いただいた戦友の一人の方からいただいた1冊の本とビデオでした。

「忘れられた戦争~シベリア抑留の記憶」
(抜粋元 YouTube JNNドキュメンタリー ザ・フォーカス動画)

お酒が入るとシベリア抑留の話をしていた父、時折、思い出したかのように片言のロシア語で「ハラショー(хорошо:素晴らしい)」や「カルトーシカ(картошка:ジャガイモ)」、そしてドイツ語の「カートーフェル(Kartoffel:ジャガイモ)」と外国の言葉を教えてくれた父、そして戦中の経験が夢の中に黄泉がえり、突然に大声をあげる父、多くの戦争体験者がこの世を去っていく中、アジア太平洋戦争の惨禍を被った家族の一人として、戦火を経験した父や父の戦友の思いをどのように継承していけるか、そして仮に父が生きていたら、今のロシアのウクライナ侵攻についてどう話すかを考えていると、「早く祖国に帰りたい」という言葉が心に響きました。

(抜粋元 ユネスコ世界記憶遺産(舞鶴引揚記念館収蔵資料)~忘れないでほしいあの日の日本~)
海外にいた約660万人の日本人の引き揚げは、昭和20年(1945年)9月、米軍管区から開始。ソ連軍管区からの引き揚げは、昭和21年12月から始まるが、容易には進展せず、昭和25年以降は舞鶴港が国内唯一の引揚港となり、昭和33年の終了までに、延べ346隻の引揚船と約66万人の引揚者を受け入れた。
(抜粋元 ユネスコ世界記憶遺産(舞鶴引揚記念館収蔵資料)~忘れないでほしいあの日の日本~)
「岸壁の母」の歌で知られる舞鶴港は、終戦と平和の象徴

京都府舞鶴港を訪れて早20年。
親父の言葉と記憶を辿りながら、今年、あの岸壁を再び訪れてみようと思います。


私たちは高次である宇宙へつながればつながるほど、よりパワフルな引き寄せの法則を体現することができ、ひいては物事を動かすために必要なエネルギーを養います。そのエネルギーをつかみ取るためにも、中今(なかいま)を生きることです。中今とは過去を振り返らず、未来へ望みを託すこともなく、今に向き合い、今を全力で生きることです。高次へつながることは容易いことではありませんが、成し遂げた先には必ず、浄土があります。常に中心は私であり、あなたです。
 
今を大切にお過ごしください。

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