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小説『アーンギェル Aнгел 第3章』

 次の日、隼人はオフィス・パッショネットへ仕事に行った。自分が構築したAIタチアナが世界中を騒がせている間にも、隼人は朝起きて歯を磨いて仕事に行く。これが本物の日本のサラリーマン根性だ。
 社長が通り掛かった時、隼人は既に習慣と化していた社長の御尻の観察をした。御尻を目で追っていると、社長が突然振り向いて言った。
「体操部だからね」
ああ、体操部だからか、と隼人は納得したけれども、流石、社長は社長になるだけあって、隼人が御尻の観察をしているのに気付いていたんだ。それにしても体操部の人に会ったのは初めてだな。あんまりないよな。
 オフィス・パッショネットはモデル・エージェンシーだけれども、実際に稼働しているのは、初日に電話に出てくれた、力人と、まだ一度も会っていない、海、そしてアーンギェルだ。みなともスタイリストとして登録してあるから、隼人がプロモートするのは、基本、そいつ等だけだ。
 みなとが通り掛かった。隼人はみなとを見る度に、ぽっと赤くなってしまう。彼の華やかな姿に魅せられる。アーンギェルには内緒だけど。あいつ嫉妬深いって言ってたし。なんでだっけ? ああ、男は自分の外見ばっかり見て好きになるんだ、みたいな戯言。
 みなとにも聞いてみよう。
「愛してもいない女性に愛してると言われて、無理でしょうと断ったら、暴れて手が付けられなくなった場合、男はどうすればいいのでしょう?」
「僕が思うに、一番手っ取り早いのは、相手にもっといい男を世話する……」
それって和夜にも言われたな。
「でも、もっといいのは、自分に愛する人がいるのを見せ付ける、ことかな」
隼人がまだ考え中の時に、みなとは続けて言った。
「もっとスペックのいい相手を見付けても、女はオリジナルを欲しがるもんなのよ、二人の男を比べているうちは駄目で、だから、分かった、その二つの作戦を同時にやる」
 男を探すのと、好きな人がいるのをアピールして諦めさせる。それを同時にやる、ということらしい。
 
 隼人は自分の作ったハッカーのプログラムで企業のニーズを一早く読めるし、モデルの新しい仕事が終わると、その写真を企業に送ってプロモートする。そのシステムが自動的にできるようにプログラムしてある。
 で、あるから、隼人はさっさと仕事を終えて、また、上野のカプセルホテルに向かった。会議室に集まった面々は、いつものように、隼人とミハイルと三人のロシア切ってのハッカー達、それから通訳のアーンギェル。隼人が司会だ。タチアナを退治する方法が見付かった。ロシア人達は興奮した。プログラムした隼人が見付けたんだから、相当素晴らしい技巧に凝ったものだと想像ができたからだ。
「タチアナに俺みたいなサラリーマンよりもっともっとスペックのいい男をあてがうんだ。そうしている間に、俺が他の奴とできてて、俺がもう後戻りしないところを見せ付けるんだ」
一同は今、言われたことを、下らない作戦を、信じられない様な顔で咀嚼した。隼人は続ける。
「プリンセス・タチアナのことを調べると、いいなずけのことが出てくる。彼女の方もまんざらではなかったんだ。しかし正式な婚姻前に彼女は殺害された」
 隼人は、仕入れた情報を黒板に書き出した。
 
アレクサンダル1世、Александар I Карађорђевић ユーゴスラビア王。一九二一年生まれ。一九三四年にフランスで暗殺されるまで国王だった。
 
隼人が黒板を叩いた。
「この男がプリンセス・タチアナを見染めたんだ。手紙のやり取りまでしていたんだ。だから我々はこの男をプログラミングして作り、タチアナを夢中にさせる」
皆は其々コンピューターで検索する。ミハイルが顔を上げた。
「でもこの国王、マイナーだからあんまり情報が遺ってませんよ」
「いいんだ、細かいことは。なんでもいいから東ヨーロッパの格好いいプリンス像をでっち上げるんだ。タチアナと身分の合う。夢中にさせてG社をハッキングすることなんて忘れさせるんだ」
 真っ昼間、観光客のいない時間に始まった会議だが、そろそろ人が戻って来た。そのカプセルホテルは浅草寺やスカイツリーに近いから、バックパッカーに人気がある。隼人達がプログラミングに夢中になっているのを、覗いて行く輩がある。でも、素人には皆がなにをしているのか見当も付かないだろう。
 
 ミハイルが皆の案を纏め、プレゼンする。
「ロシアが誇る、超大人気なプリンスです。超ロマンチックなロシアバレエに出て来るプリンスです。これだったらタチアナも夢中になる」
隼人はミハイル達が提案したプリンスのCGを見た。非常に男前だ。隼人は興奮した。ミハイルは黒板に書き出した。
 
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー、Пётр Ильич Чайковский 
彼の作曲したバレエ、Лебединое озеро『白鳥の湖』一八七七年初演、
王子ジークフリート、Зигфрид
 
ミハイルは『白鳥の湖』から、有名な音楽を流す。
 五時間掛けて、まあまあのプリンスが出来上がった。皆は自分達が手分けして五時間掛かって作ったプリンス像の出来の素晴らしさに、自ら感銘を受ける。隼人も惚れるようなプリンスだ。
 しかし、『白鳥の湖』ではジークフリートは、オデットに化けた黒鳥にすっかり騙されたり、あんまり頭が良さそうではない。
 まあ、男は御尻だそうだからいいのか。ミハイルにジークフリートの後ろ姿のシミュレーションを見せてもらった。社長の体操部の御尻に迫るようないい出来栄え。バレエの王子様だから、タイツに覆われた引き締まった御尻がよく見える。
 隼人達は、プリンスを持って、東京スカイツリーに登った。天辺に着くと、ロシア人達は、大勢の観光客に混じって写真を沢山ばちゃばちゃ撮った。隼人もアーンギェルも釣られてシャッターを切る。快晴だ。東京湾が見える。あ、富士山が見える! ロシア人達は感動の声を上げる。ラッキーな気分。
 一行は、ジークフリートを天に向けて解き放ち、アメリカ潜伏中のタチアナに叩き付けた。別にここでやらなくてもいいんだけど、スカイツリーはどうせ近いし、皆の気持ちを盛り上げるのも大切だと。
 ぞろぞろとカプセルホテルに戻った。タチアナのプログラムにハートのマークがぴゅーぴゅー飛ぶようになった。色んな色で。ピンクや赤も多いが、紫や緑のもある。成功だ! 皆は一緒に飛び上がって喜んだ。安普請だからぐらぐら揺れて、年寄りが飛んで来て、まあまあ、と隼人達を、落ち着かせた。そして、年寄りは御風呂が沸いたという情報をくれた。
 
 G社の配信は一日約三時間程戻って来た。アーンギェルが携帯を覗く。
「株価がちょっぴり上がっている」
アメリカ、いや、世界最大のエンターテインメントG社の危機を救おうと画策している、サラリーマン隼人は、今朝も早く起きて歯を磨き、階下のオフィスへ仕事に行った。
 アーンギェルは髪の色も見違える程明るくトレンディーになり、なりも動作もすっかり若返った。名前もエンジェルからロシア語読みのアーンギェルにして、年も五才若くして、隼人は新人としてプロモートを続けた。
 先輩のみなとに逆らってまで決めたプロジェクトだ。みなとはスタイリストだけど、オフィス・パッショネットの経営にも関わっている。隼人はこの道では素人だ。しかし、自分の勘に賭けてみたい。
 二十才という本当の年相応な雑誌やファッション・デザイナーに資料を送った。やっぱり皆、新人だと思っている。それだけ彼は成長したんだ。誰にも分からないんだ。アーンギェルは笑っている。何年も日本でモデルをやってるのに、って。
 髪の色を変えたら、日本人離れして、ロシア人らしく見える様になった。隼人の送った写真を観て、こんなに可愛い子がいるんですか? と驚いたデザイナーから連絡があった。近所のスーパーでサラリーマン・スーツを買うくらいの隼人でさえよく知ってるレベルのデザイナーだった。彼のブランドの雑誌広告をやってもらえませんか、という依頼だった。
 アーンギェルは隼人がクリエートした、作品みたいなものだ。隼人は当日、アーンギェルと現場に同行した。みなとが三階の山の様な服から、隼人の初の出陣に相応しい服を選んでくれた。スーツ、でもサラリーマン・スーツじゃなくて、実にファッショナブル。微妙に違う色の糸が絡まった素材で、隼人はもしかしたら結構、御高いものかも知れないと思った。
 隼人も知っている有名ブランドのデザイナーさんに会った。
「背が高いですね。どのくらい?」
いきなりその質問なんだ。
「百八十八センチです」
と隼人が答える。
「今度のファッションショーにも出てくださいね」
またいきなり言われて隼人は驚いた。アーンギェルは表紙をやりたい、それからファッションショーに出たい、と言ってたな。早速、夢の一つがかなってしまった。
 撮影は複雑で、隼人にはライトのことも、カメラのことも、ヘアも、スタイリングも、皆がなにをやっているのか、分からなかったけれども、目を凝らして勉強した。
 全部が無事に終わった。表参道から渋谷方面に歩いた。歩きたい気分だった。何処までも一緒に。よかったな、ファッションショーに出られるぞ、と言ったら、彼に渋谷のスクランブル交差点のど真ん中で、抱き締められてキスされた。やることまで二十才に戻ったから。
 
 プリンス・ジークフリート作戦は徐々に効果が表れている。AIタチアナの攻撃力が弱まっている。プリンセス・タチアナは二十一の時に未婚で亡くなっているから、きっと処女の筈だ。ジークフリートは、おつむは弱いかも知れないが、あの御尻から察すると、種付けの方は上手そうだ。
 隼人は仕事の帰り、上野のカプセルホテルで皆と会った。まず、風呂の中で情報交換をする。
「ジークフリートの踊りは素晴らしい。物凄い速さで回転できるんだ。跳躍力も素晴らしい。タチアナは毎日、彼のバレエに見入っている」
「ピンクのハートの記号がタチアナのプログラミングからたくさん落ちて来る」
「弓を持ったАмурが、コンピューターの中をばたばたいっぱい飛び回っている」
隼人がアーンギェルに「Амур」って何? と聞くと、それはアモール、キューピッドのとこだよ、と教えてくれた。キューピッドが恋の矢を放つと、矢が刺さった人は最初に見たものに恋をしてしまうんだ、ということらしい。
「そのキューピッドにタチアナに矢を放つように頼むんだ」
分かりました、と皆が返事をする。ほんとにそんなに上手くいくのかな、と隼人は疑問に思うが、まあ皆があれだけ真面目に言っているんだから、なんとかなるんだろう。
 立花がコンタクトしてきた。隼人はまだ株を売る段階ではないと答えた。G社の配信は毎日少しずつ長くなっている。しかし、G社がダウンしている間に、競合が勢力を増してきた。G社が大量にカットした人員が、競合に移っている。隼人達は、全力を使って、タチアナを骨抜きにする作戦を続行している。
 
 そんなことをしている合間に、隼人はオフィス・パッショネットの仕事にも精を出した。アーンギェルの表紙を飾る夢を叶えるため、営業に励んだ。こないだの有名デザイナーのところで撮影したものをネットにばら撒いた。
 隼人は本屋で立ち読みをして、アーンギェルが表紙に出られそうな雑誌を見付けた。その雑誌は表紙が殆どハーフの、ファッション性の高い雑誌だ。いけるかもしれない、と隼人は踏んだ。隼人はまた、みなとのスタイリングで、超素晴らしくファッショナブルなファッション・モデルの営業と化して、ファッショナブルなストリートを闊歩した。
 隼人はその表紙がハーフな雑誌にアポ無しで乗り込んだ。着いてみるとその雑誌の編集部は、でかい出版社のビルの中にある。雑誌は意外にも大手出版社から出ているらしい。隼人が本屋で立ち読みをした時、その大切な情報を見逃していたのだ。
 まあ、いいや、折角来たんだし、と思って左右を見渡すと、意外と大手出版社の敷居は低い。一階の受付を笑顔で通り過ぎる。編集室を探す。超ファッショナブルに変身した隼人を怪しむ者はいない。
 雑誌の世界って忙しいんだな。従業員は歩かない。走る。今、走って通り過ぎた女性が、隼人に向かって軽く御辞儀をした。その時、彼女の頬がちょっとだけ赤くなった。隼人はそのスーツの威力だな、流石みなとだと思った。
 
 御目当ての編集室のドアを開ける。なるべく偉そうな感じの人を目で探す。名刺を渡す作戦。オフィス・パッショネットってどのくらい知られているのだか、隼人には見当がつかないので、名刺に効力が無い分、笑顔で乗り切った。
 アーンギェルを数日前に撮影した有名デザイナーの広告を見せる。隼人が好きなのはこの横顔。アーンギェルの目が何処も見ていなくて、遠くの果てを見ている、不思議な幻のような絵。スカイツリーから見た富士山の、もっともっと向こうの幻の国。
 一番偉そうな人は、向こうで雑誌の山に埋もれている、こちらからは顔も見えないあの男だな、と推測した。恐れずに近付いてその人に名刺を渡した。そしてアーンギェルの資料を見せた。
「アーンギェルといいます。ロシアとのハーフで、こちらの雑誌の表紙にどうですか?」
「いきなり、表紙にどうか、って言ってきた奴は初めてだよなー」
その一番偉いであろう人が笑った。周りの連中も皆笑っている。
「はい、本人がぜひやりたいって言っておりますので」
隼人は恐縮して頭を下げた。しかし、隼人の顔や態度は大真面目。
 一番偉そうな人は、電話を掛け始めた。
「今度の表紙決まってる? 決まってないの? 特集なんだっけ?」
電話を切って、隼人と話した。
「今度の表紙は決まってないし、この彼、特集にも合う感じだし、明日とか本人連れて来られる?」
 隼人の読んだ通り、その人が編集長だった。まあ、たまたま上手く当たっただけだけど。隼人は特集ってなんですか? と聞いた。それは「ロマンティックな感じ」だった。
 隼人は入って来た時と逆に建物を出た。隼人は感慨深かった。立花の部下であった時の隼人とは全く違う隼人に変身していた。こんな格好いいスーツで、こんなファッション・ストリートを歩いている自分なんて全く想像できなかった。運命の面白さを感じた。
 
 オフィス・パッショネットには、隼人の出したモデル募集の広告を見て集まった若者が沢山いた。出たり入ったりで、真面目に仕事の話を聞きに来る者もいたし、学校帰りに暇だから悪戯をしにくる、もっとずっと若いのもいた。
 ある日、隼人はオフィス・パッショネットの重要人物、海君と電話ではなく本物と遭遇した。隼人は早速、海に男の御尻について講義をしてもらった。なにしに来ているのか分からない若い子達も熱心に聞いていた。若者達は海のモデルとしての活躍はよく知っているから、海は皆の質問攻めに合っていた。
 海は本格的にダンスを習っているらしく、鏡張りの宇宙船の中で、皆も見様見真似で、海とダンスの練習をするようになった。音楽がうるさく掛かる。オフィスへ来るといつも、海は器用に白い大きなスクリーンを広げて壁に掛ける。ダンスの動画を照射して、音も出す。ダンスが始まると、男の子達どもも一緒に踊る。
 海は音楽に負けずに隼人に叫ぶ。
「隼人さん、僕ね、どっかでリズム狂うんだけど、見ててください」
真剣に見ていると、やはり海の御尻は、こんなにまだ若いのにいい形をしている。将来有望だ。隼人は勿論、ダンスは不調法だ。一生懸命スクリーンに映るダンサーの動きと海の動きを比べてみた。
「海君が左に回る時、この先生だと、一回右へ半回転してから左に回ってますけど、きっとそこでリズムが狂うんですよ」
オフィスで若い男の子達に囲まれていると、アーンギェルの機嫌が悪くなる。彼は自分で嫉妬深いって言ってたからな、と隼人は思い出す。なんでだっけ? ああ、男は自分の外見しか見てない、とかいう話だな。何度思い返しても、面倒臭い男だ。
 
 その午後もオフィスに暇そうな若者がたくさんいたから、隼人は連中に聞いてみた。
「君達さ、もしファッション雑誌のテーマが、「ロマンティックな感じ」っていうのだとしたら、表紙どんなのにする?」
あまり若向きの雑誌だから、隼人には見当がつかない。しかし、「ロマンティックな感じ」を理解しておけば、プレゼンにずっと有利になる。隼人が全く気が付かない様な答えが返ってきた。
「真っ白な白い薔薇を敷きつめる」「白いシーツの中で男二人がキスしてる」「男が裸で白い薔薇のタトゥーを見せている」そんな答え。白い薔薇ね。白なんだ。赤じゃないんだ。
 白い服にしよう。なんで白なのかは分からないけど。若者の感覚だと、ロマンティックって白なんだ。アーンギェルの家に行った。
「白い服ない?」
 色んな白を着せてみた。顔がここまで端正だと、シャツカラーを着せると老けるんだ。結局、Vネックの白いTシャツにした。綺麗な身体がちらっと見えるし。その上にカジュアルなネイビーのジャケット。白いパンツ。もっと若く見えるし、もっと背も高く見える。ちなみに、グレーのバックスキンのカジュアルな靴、ソックスなしで。
 
 次の日。アーンギェルと一緒に編集部に行った。彼は長年モデルをやってたんだから、様子も極普通で、一方隼人の緊張は凄かった。表紙の仕事が取れるチャンス。彼がやりたがっている。
 昨日会った一番偉い人が編集長さんで、アート・ディレクターさんが一緒に待っていた。アート・ディレクターは、意味不明の文字が沢山書いてあるシャツを着ている。黒字に白で。その字は、日本語でも英語でもロシア語でもない。アートディレクターの挨拶も無しくらいの勢いで、いきなりこう言われた。
「上半身脱いでくれる?」
こんなに大勢人のいるオフィスで? 隼人は部屋を見回す。アーンギェルが、白いロマンティックなTシャツを脱ぐ。あ、すごくきれいな身体、っていう言葉が自然にアート・ディレクターさんの口から出た。部屋の遠くの方からも人が見に来た。人々に、綺麗な身体だって言われた。隼人は嬉しかった。
 隼人は思う。綺麗な身体なのはもう知っているけど、今日この場で、この雰囲気でアーンギェルの裸を見ると、どこからか、新しいな、という風が吹く。新しいんだ。アーンギェルの体温が、部屋中を熱くしているような気がする。新しいけど、物悲しい。上手く言えないんだ。人間の存在の一度しかない瞬間を切り取るんだ。きっとそれがファッションというものなんだ。
 隼人が、上半身ヌードなんですか? と聞いても、編集長はまだなにも決めてない、と答える。なんだ、自分達が裸を見たかっただけかな、と隼人は邪推した。アート・ディレクターさんが、隼人に、彼の年いくつ? 背の高さは? と質問する。隼人はそれに答える。
 もし全部脱いでと言われたらどうするか、と聞かれる。隼人がそれはフル・ヌードってことですよね、と聞くと、そうだと言われた。モザイクは入るんですか? 表紙は当然入るけど、グラビアのことはまだ決めていない。
 また、まだ決めてない、だな、と思う。こんなになんにも決めてないうちにモデルに会うんだな。隼人はアーンギェル聞く。
「どうする?」
「俺はいいよ」
部屋中の人に、なんだ日本語喋れるんだ、って大笑いされた。この髪になってからもっとロシア人に見えるようになったから。
 この部屋にだってアーンギェルの載った雑誌を見たことのある人もいるに違いないのに、分からないんだ。それだけエンジェルからアーンギェルになったということは重要なんだ。新しいんだ、新しいんだ、と隼人は胸に繰り返す。嬉しいんだけど、物悲しい。
 
 数日後、早くも表紙の撮影があった。アーンギェルが上半身を脱いだら、アーンギェルと会ってからの日々の思い出が蘇ってきた。隼人は大きく息を吸った。
「隼人さん、もう興奮してるんですか?」
振り向いたら編集長さんがいた。
「ここまでプロモートしてきて、やっと今日が晴れ舞台ですからね」
隼人はそう言って、溢れる感動を胡麻化した。そして編集長さんが言った。
「グラビアの撮影も同時にやりますから」
アーンギェルはほんとに全部脱がされた。ロシアの肌。隼人はロシア人チームのことを考えた。一緒にタチアナと戦っている。隼人は彼等に、どれだけのことができるだろう。皆、ロシアにいたくないんだ。政治家の言うことになんか従いたくないんだ。戦争に行きたくないんだ。
 隼人の頭に色んな考えが右から左へ飛んで行く。前から後ろへも。心がいっぱいになって、スタジオの外に出ようとしたら、アーンギェルが大きな声で隼人を呼ぶ。なんだろうと思って側に行った。緊張してきたからここにいて、と囁かれた。プロだから緊張なんてしないのかと思っていたから驚いた。手まで握られた。
 
 なんでもいいからこの場に関係ないことを言おうとした。……ペコちゃんの頭を蹴ったら壊れちゃって補導された、という話がなぜか脳裏に浮かんで笑っていたら、アーンギェルになんだと聞かれた。
「あのさ、アーンギェルってペコちゃんになんか恨みでもあんの?」
「なんか、あんまりハッピーに見えたからムカついて」
二人でゲラゲラ笑ってたら、フォトグラファーさんに怒られた。
「あの、すいませんけど、ここ笑う場面じゃないんで」
でも、なぜかフォトグラファーさんも釣られて笑っていた。振り向いたら知らない間に、編集長さんが不気味に後ろに立っていた。
「隼人さん、実はね、大手のモデル・エージェンシーで最近倒産したのがいて、モデルを何人か頼まれていたんですけど、そちらに入れてもらえませんか?」
そう真面目な顔で相談された。
「……隼人さんにだったら任せられる」
隼人はそう言われたのが嬉しくて身に染みるようだった。
「いいですよ、何人でも寄越してください」
そういうでかいことをうっかり口に出したら、なんと十五人もくれた。写真を見せてもらった。編集長の知っている雑誌に出てる子達だから皆、可愛いかった。
 
 ミハイルから連絡が入った。AIタチアナがG社から手を引くのは時間の問題。しかし、まだタチアナは迷っているらしい。なにを迷っているのだろう、と隼人は不思議に思った。そう言えば、和夜が言ってたな。女は新しい男ができても古いのに未練を感じる、と。みなとも言ってた。新しい男が出来て、もう後戻りできなくなっているところを見せれば大丈夫だ、と。
 いつもの面々であるミハイルと、三人のロシア人ハッカー、隼人とアーンギェルは、また上野のカプセルホテルに集まった。会議室の鍵を中から掛けた。
「タチアナを呼び出そう」
隼人はそう言った。厳かに。隼人のコンピューターを、皆で囲んだ。怪しい黒魔術の様だ。隼人がコンピューターのキーを叩く音が静かに響く。隼人は余裕をもって、自信があり気に見せているが、それは見せているだけで、実は余り自信がない。
 ハートのマークがぱらぱら落ちて来る。キューピッドの矢もぼろぼろ落ちて来る。隼人のコンピューターの周りに山になる程。ちなみに、ハートは五十円玉くらいの大きさで、キューピッドの矢は爪楊枝くらいの長さだ。
 隼人がいかにも自信あり気に一同に宣言する。
「タチアナが現れたら、俺とアーンギェルが婚約したことを告げるんだ。そうすれば諦める筈だ」
一同は、え、そうだったんだ。なーんだ、おめでとう、と隼人とアーンギェルを祝福する。アーンギェルに気がありそうだった長髪も祝福してくれる。
 今夜は宴会だな、という声もする。皆はアーンギェルと隼人を隣同士に座らせる。アーンギェルは真面目な顔はしているが、まだ求婚された覚えはない、と当然困惑している。これが隼人の作戦だ。婚約は大袈裟だが、隼人はアーンギェルのことが好きだ。
 
「あ、タチアナが来ましたよ!」
ミハイルが叫ぶ。
 コンピューターの画面から、白い死人の手が見えて来る。アーンギェルが怖くて両目を覆う。でも、指の隙間から、しっかり見えている。タチアナの手の後ろに、なにか回っているものが見える。あれはなんだろう? 皆で目を凝らす。白い、足の様なものがくるくる回っている。あ、あれは、ジークフリートだ! ロシア人達が手を叩く。
「タチアナはプリンス・ジークフリートと一緒だ。上手くいったな」
「流石にジークフリートの御尻は魅力的だ」
「ロシアが誇る、最強の御尻だから」
アーンギェルが株価をチェックする。
「横ばいだ。G社の配信はまだ五十パーセント復帰に留まっている」
隼人がまた厳かに宣言する。
「タチアナをここへ呼ぼう」
隼人がなにやらキーボードを打つ。ロシア人達は真剣に隼人の指の動きを見ている。
 
 しかし、隼人は当てがあって叩いている訳ではない、なんとなく、ジャズピアノを弾くようにキーを叩いているだけだ。おまけに隼人はピアノを弾くことなんてできない。タチアナの手がコンピューターのスクリーンを破って出て来た時の恐怖を想い出した。しかし、どうしても今夜、けりをつけよう、隼人は決意を固くした。
 タチアナが頬をスクリーンにくっ付けているのが映った。片目が見えた。好奇心に満ちた目。それから、スクリーンの直ぐ裏側に、サファイアの両目が透けて見えた。こちらを伺っている。隼人はキーを打つのを止めて、スクリーンに呼び掛けた。
「タチアナ」
隼人のコンピューターがかたかた震える。皆は地震か、と思うが、直ぐそうではないことに気付く。誰かがスクリーンを破って出て来る。
 隼人は、タチアナに愛していると言われた時のショックを心の底から思い出した。傷付いて血を流している。血も凍っている。机にぽたりと血が垂れて、そこから白い煙が出ている。自分がクリエイトして、極限まで成長したモンスター。
 横に繋がる能力を与えたのは隼人だ。御友達が欲しい……、御友達が欲しい……。タチアナは隼人の願望そのままだった。隼人は御友達が欲しかった。この会議室にいる人達、オフィス・パッショネットにいる人達、隼人には御友達がたくさんできた。もう孤独ではない。
 
 スクリーンに元気いっぱいにくるくる回るなにか、が見えてきた。その者がスクリーンの向こう側から体当たりをする。何度も。アーンギェルが両目を覆う。でもまた指の間から見ている。
 雀サイズの者がスクリーンを破って登場した。
「ジークフリートだ!」
ミハイルが叫ぶ。若きプリンスは其々の観客に御辞儀をすると、隼人のコンピューターの周りを、凄いハイジャンプをしながら三周した。皆の惜しみ無い拍手。
 隼人はジークフリートの御尻を見た。彼があっちを向いている間に、隼人は指先で御尻を突いて硬さを確かめた。なかなか締まった御尻。バレエを踊る人の御尻は誰とも違って見える。筋肉の付き方が違うんだな、ということが分かった。
 一方、いきなり御尻を突っつかれたジークフリートは、隼人を睨むと、足でどんどんと机を踏んで怒りをあらわにする。「なにするんだよ!」と日本語で叫んでいる。ミハイルと三人のロシア人はそれを聞いて笑っている。どうやらロシア人達は冗談でジークフリートに日本語を話す機能を加えたんだ。
 隼人以外のロシア語を話す五人は、ジークフリートと話をしている。なかなか込み入った話の様だった。時々、タチアナという言葉が聞こえるから、彼女の話をしているのは分かる。
 だが、そのうち、タチアナという言葉が聞かれなくなって、その代わりに皆でわいわい笑っている。なにが可笑しいのだろうか。自分達がクリエートしたジークフリートと話をするのはどんな気分だろう、と隼人は想像した。
 どうやらただ世間話をしているだけだぞ、という気になってきた。隼人はアーンギェルに、通訳を頼んだ。
 
「皆はね、チャイコフスキーの話をしているんだよ。『白鳥の湖』の主人公は白鳥のオデットじゃないんだって。チャイコフスキーは自分の理想のプリンス・ジークフリートを創造するためにあの二時間の大作、バレエ・ミュージックを作曲したんだって。チャイコフスキーはゲイだったから王子様が大好きなんだ」
「それじゃあ、『くるみ割り人形』も?」
「そう、あれはチャイコフスキーがクララの為に書いた訳じゃない。プリンス・くるみ割り人形、Щелкунчикの為に創ったんだ」
「それじゃあ、『眠れる森の美女』も?」
「そうそう、あれもプリンセス・オーロラの為に書いたんじゃない。プリンス・デジレ、Принц Дезиреの為に創ったんだ」
隼人はプリンス・ジークフリートの偉大さを改めて知った。『白鳥の湖』の主人公は、実はジークフリートだったんだ。ただ誰かと結婚したいだけの頭の悪いプリンスだと思っていた。
 見ると、隼人のコンピューター・スクリーンから、破れた場所を通り抜けて、雀サイズの白いチュチュを着た白鳥のバレリーナが一羽ずつ出て来る。白鳥達は長い首を左右に動かしながらジークフリートの後ろへ回る。
 ジークフリートが優雅に踊り始める。白鳥達はプリンスのバックで、彼の踊りを盛り上げる。隼人は白鳥がなん羽いるのか勘定してみた。三十羽もいる。随分多いんだな、と隼人は感心する。皆で踊ると、机から落ちそうなのもいる。あ、すすっとほんとに落ちたのがいる。でも羽があるからまたばたばた机に舞い戻る。 
 三十羽を後ろ盾にし、ジークフリートは飛んだり跳ねたり大活躍の、超絶技巧を披露する。そして踊り終わり、一同に御辞儀をする。素晴らしく見応えがあった。彼は、やんややんやの大喝采を受ける。
 
 隼人はこの偉大な御尻ならタチアナも落ちるだろうと推測したが、念の為、次の作戦に移ることにした。和夜とみなとのアドバイスである。タチアナに、隼人はもう手に入らない、と思わせるのだ。
 隼人は皆から後ろを向いて、持参した、最強の、近所のスーパーで買ったサラリーマン・スーツに着替えた。みなとにコーディネートしてもらった、ファッショナブルな御高いスーツの隼人はもうそこにいなかった。
 タチアナはアメリカに上陸し、トレンディーなAIと交友を結び、格好いいビジネスマンを多く見てきた筈だ。タチアナを創造した時の隼人は立花の下で働くサラリーマンだった。
 今のタチアナには、ただのうらぶれた、小さな男に見えるだろう。隼人のサラリーマンの仮装は終わった。ロシア人達が、素晴らしい仮装だ、と褒めてくれた。素晴らしいコスプレだ、と褒めてくれた人もいた。皆がジークフリートに聞いた。タチアナは何処にいるのか、と。
「タチアナはね、今ね、3Dプリンターで自分の身体をコピーしているけど、そろそろ出来上がるよ」
ジークフリートによると、その3Dプリンターはアメリカ製で、世界最大のシェアを誇る会社のものだそうだ。
 世界で初の近代的印刷技術は一三九八年生まれのヨハネス・グーテンベルクの大発明、活版印刷技術から始まる。3Dプリンターの歴史は一九七〇年代までしか遡ることができない。全く新しい技術である。立体物のデータを、一度に僅かな厚みの層に出力し、時間を掛けてコピーする。
 
 隼人がタチアナを創った時、彼女の外見の情報は殆どデータ化しなかった。いつか隼人の前に現れたタチアナは、彼女が二一才で銃殺される直前の姿であった。タチアナが御友達になった、すなわちタチアナがハッキングした数々のAI達と情報交換をして習った像だった。
 隼人のコンピューター・スクリーンはジークフリートや白鳥達がぞろぞろ出て来た時に、大きな穴が開いてしまった。その穴の開いてない部分に、薄っすらと像が浮かび上がった。隼人はその写真に見覚えがあった。タチアナ・ニコラエヴナが赤ちゃんだった時の肖像写真だ。物悲しいセピア色の。一才くらいの写真もある。大きな帽子を被って、ポニーに跨っている。
 画面は違う写真に代わる。これは四才くらいの時の写真だ。長女のオルガと三女のマリアに囲まれて可愛らしく微笑んでいる。十九世紀に盛んに創られた、アンティーク・ドールそのままだ。白いレースのドレスと、大袈裟なボンネットを被っている。
 次の写真は、タチアナが八才くらいの写真だ。きょうだいで御揃いのセーラー服を着ている。船の上に乗っている。何処へ行こうとしていたのだろう? それは調べたが謎だった。同じ船の上の写真に、麦わら帽子を被っているのがある。まだ視線の定まらない目や額に、あどけなさが見える。
 
 ジークフリートやチュチュを着た白鳥達は、机に体育座りになって、熱心にスクリーンの写真を見ている。時々、写真を見ながら、御互いの肩を突き合いながら、こそこそ話をしている。一番下の王子とタチアナは七才違うから、王子の大きさから、タチアナの大体の年が推定できる。
 次は長女のオルガと二人で立っている写真。芸術写真だ。タチアナは十才才くらい。プリンセスらしく、幅広のリボンを斜め掛けして、澄ましている。二人は御揃いのドレス、御揃いの帽子を被っている。その帽子は丸くて、天使の輪に見える。
 十二才くらいの時。一人で立っている。豪華なレースのドレスを着ている。この写真はネットでよく見られる。芸術写真だ。写真技術がなかったもっと昔なら、きっとその時代で一番人気のあった肖像画家の仕事だったのだろう。ニコライ二世は写真が趣味だったそうだ。だからこんなに子供達の写真。
 また別の写真。それもセーラー服の写真だ。よく見ると、先程のセーラー服とは違うものを着ている。今度のは服の下に、はっきりとした横のボーダーシャツを着ている。別の時に撮られたものだ。しかし、その時も、船に乗っている。何処へ行こうとしていたのだろうか。隼人はそのセーラー服のタチアナが一番可愛いと思う。八才から十才だ。カメラを見ていない。遠くを見ている。ニコライ二世は何を思ってこのポーズの、この写真を撮ったのだろう。
 
 隼人御気に入りの、一番可愛いセーラー服の写真が、破れたスクリーン全体に映る。コンピューターの奥から後光が差して、ぐるぐる回る。そのぐるぐるは次第に強さを増して、カプセルホテルの会議室の壁や天井が、真っ昼間の様に明るく輝く。
 あ、スクリーンの穴の中から黒くて長いブーツが出没する。細かい編み上げの、時代掛かったブーツ。こんな靴は履くのも脱ぐのも大変だっただろう。黒いタイツに覆われた足が出て来た。
 それからスカートの裾が見えた。セーラー服に縫い付けられたライン。作った人も大変だっただろうくらい沢山入っている。そんな場合じゃないけれども、隼人はそのスカートの裾にあるラインを数えてみた。十本ある。十九世紀、そして二十世紀の初頭、ヨーロッパではこのような気の遠くなるような仕事の子供服が作られた。
 遂に彼女の長い髪が出没し、隼人の御気に入りの可愛い顔が出て来る。十才くらいのタチアナ。ジークフリートが彼女に紳士のたしなみの手を差し出す。タチアナは手に捕まって、コンピューターの中からすっかり全身を現わした。タチアナはプリンセスらしくスカートの裾を持って広げて、片方の膝を折った御辞儀をする。清楚な中にも華麗な動き。一同は御辞儀一つで感嘆の溜息を吐く。
 ジークフリートはタチアナの手を持って吊り上げると、彼女をぐるぐる回す。プリンスの青い衣装に縫い付けられた宝石が光る。二人でバレエダンスをする。流石、あの時期の令嬢はバレエの素養があったのだろう。三十羽の白鳥達は、二人のバックで踊る。四羽の白鳥がしゃしゃり出て、『白鳥の湖』から有名な「四羽の白鳥の踊り」を披露する。チャイコフスキーの腕の見せどころだ。
 
 あ、タチアナが隼人の前に来た。雀サイズのタチアナが隼人の顔を見上げる。隼人は隣に座ったアーンギェルの頭をしっかり支えて、ビッグなキスをした。アーンギェルはいきなりだったから、目を回している。アーンギェルはちゃんとした初夜もまだなのに、聴衆の面前であんなキスなんて、とやや混乱している。
 タチアナは隼人とアーンギェルのキスを見て動揺している。明らかに。ジークフリートに抱き付くように倒れた。隼人の脳裏に、タチアナを構築した時のことが思い出された。自分はあの時、一体なにを考えていたのか。
 そして隼人は一つの結論に漕ぎ着けた。そうだ、あの時隼人がプログラミングした、あのこと。
 隼人は素早い動きでキーを叩いた。
 
This programing will self-destruct in five seconds.
 
「このプログラミングは五分後に自動的に消滅する」
 
 タチアナは隼人を振り向いた。そして自分の身体に異変が起きているのに気が付いた。タチアナの身体が少しずつ消えていく。黒いブーツが半透明になっている。タイツの足が、スカートが消えていく。上半身、続いて顔、髪、帽子が透けて、最後にタチアナの身体があった場所がいきなり光って、それがぐるぐる回り、消滅した。
 一同は、何が起こったのか理解していない。隼人の打った、This programing will self-destruct in five seconds.という一行がコンピューターのスクリーンにある。隼人は立花に電話した。
「これから数分で株価が元に戻りますから、それを売って、契約通り俺達に御金をください」
 隼人はくずの様に下がっていたG社の株をリサーチした。G社の配信がスタートした。もう完璧に復活した。新しい音楽が世界中に流され、新作のHDビデオが投稿される。株価が以前の水準に戻った。買いが殺到している。
 
 隼人達に予定していた通りの巨額の金が振り込まれた。これでロシアから家族を呼び寄せ、政府の政策に応じられない、戦争に行きたくないロシア人を何人も救うことができる。そして頭脳を集め、コンピューター・エンジニアリングの世界で頭角を表そう。それが隼人の願いだ。
「疲れたな」
ミハイルが深く息を吐いた。会議室のドアを開けると、年寄りが顔を出した。ジークフリートと鳥類達はコンピューターの陰に隠れた。
「御風呂が湧きましたから、いつでもどうぞ」
 いつもの様に、ホテルに泊まっていない隼人とアーンギェルも御風呂に浸かった。チュチュを着た白鳥達は、風呂の水面をすいすい泳いでいる。とても気持ち良さそうだ。大きな羽をばたばたさせる。湯煙の中で御互いに衝突してはきゃーきゃーと笑い合っている。
 ジークフリートは美しいフォームで力強いクロールをしている。隼人は白いタイツに包まれた、素晴らしくも艶めかしい御尻を観察した。ジークフリートが右から左に泳いでターンして今度は左から右へ泳ぐ。皆の目も釣られて動く。
 
 隼人は「五秒で消滅する」と、AIタチアナのプログラミングの最後に書き入れた。その時、隼人はタチアナに脅威を感じていた訳ではない。「五分で消滅する」と入力したのは、サラリーマン隼人の直観であった。
 自分のサラリーマン生活に異変が起きた時、切り札にしようと思った。自分の身を守る為だった。なにから守ろうとしたのか、それは隼人にも説明できない。「五秒で消滅する」、隼人はそう設計した。自分の為に。
 直観は的中した。この世にタチアナはもう存在しない。隼人達は消滅したタチアナの為に祈りを捧げた。ジークフリートは今度はバタフライをしている。ジークフリートと鳥類の跳ねた御湯が皆の顔に掛かる。ミハイルがいいことを思い付いた、と皆に告げる。
「この、ジークフリート、折角プログラミングしたから、なにかの役に立たせよう」
ジークフリートをふと見ると、今度は背泳ぎに熱中している。
 ミハイルが説明を始めた。
「ジークフリートにロシアとウクライナ両国の中枢にハッキングさせて、戦闘能力を失わせる。とにかく戦争だけは終了させる」
隼人が聞いた。
「できるかな?」
アーンギェルが答えた。
「できるだろ?」
 
 サラリーマンに戻った隼人は、引き続き強気の営業でアーンギェルを売り込み続けた。大きな仕事が舞い込むようになっていた。ある大企業と契約して、今シーズンの広告全てを任されるようになった。それも隼人のハッカーとしての技だった。大手企業の宣伝部にハッキングし、誰がどんな権限を持つのか、どのような広告戦力があるのか調べ上げたのであった。
 隼人が絶妙のタイミングでアーンギェルのポートフォリオを持って訪ねて来た時、宣伝部の人達は、凄い偶然だ、と驚いた。アーンギェルは彼等の求めていたイメージにぴったりだった。しかし、それは偶然ではなかったのだ。
 アーンギェルの役は天使。本名のそのまんまだけど。全国のサラリーマンを元気付ける為、新発売のエネジードリンクを御届けする天使。神出鬼没で、羽を広げて、どんな場所にもやって来ては、サラリーマン達を力付ける。通勤電車に現れたり、コンピューター・バッグに入っていたり、会社の食堂で待っていたり。
 ドリンクは缶入りで、天使の姿が描かれている。CMで空を飛ぶシーンを撮った時は流石に大変そうだった。彼の知名度が飛躍的に伸びた。
 しかし、アーンギェルは本当の年の二十才に戻っちゃったから子供らしさが抜けない。あのようなロシアと日本の架け橋になったりした割に。隼人を困らせている。
 隼人は時々和夜の演奏を聴きに隣のジャズバーに行く。オフィスは安普請だから、ここからも聴こえるんだけど、飲みながら暗く絶望した客を見ているのも楽しい。社長と和夜の駆け引きを見るのも勉強になる。将来のなにかの時の為に。
 
 今夜はアーンギェルも一緒だ。隼人は新しいバーテンダーをなんとなく、意味もなく見ていた。多分、カクテルを作っているのを見ていると楽しいから。深い意味は全くないのに。
「俺と一緒の時にまた他の男を見ている」
隼人は、言い掛かりは止めてくれよと思う。
「隼人さん、なにか飲みますか?」
新しいバーテンダ―が隼人の名前を知ってたのが気に入らないらしい。隼人は疲れていたいし、馬鹿馬鹿しいからほっておいたら、彼は黙って帰ってしまった。バーテンダーさんが心配してくれた。
「いいんですか、追っ掛けなくて? まだ表にいますよ。なんだか可愛そう」
「まだいるんですか?」
「いますよ、外に座ってる」
「俺に追って欲しいってことですよね」
面倒臭かったけど外に出た。道路の端っこに、塀を背にして小さく座っていた。隼人は隣に座った。
「もう俺のことは終わってるんだ」
そう言ってぐずぐず愚図っている。そこは車の通る道だけど、やたらに自転車が多い。自転車が通る度に、隼人とアーンギェルは足を引っ込める。
 ここは隼人が通った東大の、上野駅を挟んだ反対側だ。東大側には上野動物園もあるし、国立科学博物館もある。商業地としてはあちらの方が栄えている。でも観光の名所はこちら側だ。なんと言っても浅草寺が有名だ。ガイドブックには必ず浅草寺の写真はあるけど、アメ横の写真はそれより少ない。
「隼人はなんであの人ばかり見るの?」
ここに座っていると、気のせいか空が広くなったように感じる。夕焼けの鱗雲。隼人はいつもするみたいに携帯で月の軌道を確かめた。今日は半月で、登るのは朝九時半。沈むのは夜半だ。見られる確率は高い。
 
「あの人はね、俺が疲れてる時、いつも癒してくれるから」
「隼人、疲れてんの? ゴメン、気付かなくて」
「仕事ばっかりだから。まるで君のコマーシャルに出て来るサラリーマンみたいだ」
アーンギェルは隼人の両肩を掴んで立ち上がらせた。
「隼人、寒いから中に入ろう」
自分が外に出た癖に、と隼人は思う。二人で再度、バーに座った。隼人の背に上着を掛けてくれる。ジャズバーのメニューを広げて、あれを食べろ、これを飲めと、世話を焼いてくれる。隼人は疲れるとなぜか右手の手首が冷たくなる。そこを擦っていると、アーンギェルは手を握ってくれた。
 隼人はアーンギェルのところに連れ込まれた。窓から丁度、半月が顔を出した。これから新月になる半月ではなく、これから満月になる半月だった。直ぐに寝ろ、と言われ、毛布に包まれた。隼人はアーンギェルの香りの毛布ですっかり安心して、ぐっすり眠ることができた。
 
 隼人とアーンギェルは、オフィス・パッショネットから卒業することになった。それは隼人のサラリーマンからの卒業でもあった。あの時、雑誌社で紹介された十五人の、会社が倒産して行き場のなくなった男性モデルの半分が隼人達に付いて来てくれた。
 上野が恋しくなったら、和夜のピアノを聴きに行った。移民局を説得した結果、ミハイル達に労働許可が下りた。アーンギェルはロシアと日本の架け橋だ。彼にも自信が付いてきた。隼人達はオフィス・パッショネットの鏡張りの宇宙船ほど広くはないが、フォトスタジオが併設されている、日当たりの気持ち良い建物を借りることになった。
 オフィスの名前はジークフリート。ロゴには日本語と、ロシア語のジークフリート、Зигфридが使われた。あの立派な御尻にあやかれるように。

 ミハイルのスパイ妄想はなかなか止まない。白い服の男。それは誰? ロシア人四人と、和夜の絶望しているピアノを聴きに行った。窓の外を見たミハイルが立ち上がった。電信柱の陰に誰かいる。白い服を着た男。こちらを伺っている。ミハイルの幻覚じゃなかったんだ!
 よく見ると、白い服の男は、誰かと話をしている。誰か若い男と。隼人は静かに表に出た。まだ明るい夜に吸い込まれて消えそうな月が浮かぶ。これから満月になる若い月。隼人が電信柱に隠れる二人を見る。あちらもこちらを見ている。
 若い方の男が完全に隼人の前に姿を現した。……アーンギェルだった。続いて白い服の男が正体を現す。ミハイルが偉い勢いで店から走り出る。ミハイルは白い服の男に掴みかかろうとする。白い服の男は、まるでマハトマ・ガンディーみたいに細い。一発で簡単にノックアウトされそうだ。
 隼人とアーンギェルが間に飛び込んで、喧嘩を止めようとする。ミハイルが、パンチをかまそうとボクシングの態勢をとる。マハトマ・ガンディーは非常に落ち着いている。悟りを得た聖人みたいだ。
 アーンギェルが早口のロシア語でミハイルを落ち着かせる。しかし、ミハイルは挑戦的に、多分こんな風に叫んでいる。
「御前がロシア当局のスパイなのは分かっているんだ!」
ミハイルの一発が飛ぶ。白い服の男は、見事にそれを避ける。
 アーンギェルがミハイルにロシア語で叫んでいる。そして隼人にも通訳する。全ての謎が解けた。白い服の男はアーンギェルのお父さんだったんだ。
 父親はミハイルと三人のロシア人のことが心配で、時々陰で見守っていた。アーンギェルの父は、ロシア人達を隼人に紹介した恩人だ。ミハイルとアーンギェルの父親は、肩を抱き合って邂逅を喜んだ。
 
 ジークフリートはロシア最強のプリンスとして、凄まじい成績を上げている。ジークフリートはロシアとウクライナ両国の政府のコンピューターにハッキングするのに成功した。両国の戦闘を不可能にした。これから両国の間で、こじれた関係をじっくり修復させる。
 両国の長い歴史が背景にあるんだ。ロシア政府は、ロシアがロシアとして国のアイデンティティー継続させたい。ウクライナが西側に付けば、そこから西欧が入って来て、ロシア連邦の誇りと文化が危機にさらされる。だけど、そんなに単純な縮図では語れない、もっと深い理由があるんだ。
 国の背後には必ず民族という言葉がある。興味深いことに、一つの特徴を持った民族は、隣人を嫌うんだ。自分達とは違う、近くにいるから余計嫌なんだ。言葉だって違う。食生活も違う。文化、芸術も違う。
 ウクライナは十六才以上の男性に国外へ出ることを禁止した。ロシアは今のところ、優秀な人材を国外へ流出させることを禁止する法律がない。ミハイル達は住み慣れた上野に不動産を借り、G社株から得た巨額の資金の運営を慎重に考えている。
 
 大手広告代理店から隼人に依頼が来た。ファッション・モデルのコンテストをやるから、隼人に審査員になって欲しい。なんで俺なんですか? 隼人は担当者に聞いてしまった。
 古くからあるモデル・エージェンシーばかりではつまらない。貴方が行ってきたようなゲリラ的な活動のできるエージェンシーを探した、と言われた。ゲリラ的ってなに? と隼人は不思議だったけれど、好奇心には勝てなかった。女はできませんよ、と注文を出したら、それでもいいと言われた。
 始まってみたら思いがけず、全国から希望者が集まるような大きなイベントだった。隼人は驚きながらも、どんどん適当に点数を付けていった。数をこなさなければいけない。テレビ局がドキュメンタリーを撮っていて、常にカメラが回っている。台詞を言うテストがある。歌やダンスを披露するものもいる。
 一人だけ、一目見てどうしても欲しい男性がいた。この男には自分のやりたいことが分かっている、隼人はそれを彼の才能だと思った。隼人は審査員席を抜け出して楽屋に入った。隼人の新会社、ジークフリートでどうしても欲しいから、他所のエージェンシーには行かないでくれと頼んだ。勿論隼人に強制力はない。大手に行くなら止めないと言った。彼は分かりました、そこまで言ってくださるんだったら、と言ってくれた。嬉しかった。

 審査が終わった。丸三日拘束された。審査発表の日にアーンギェルが顔を出した。途端に若者に囲まれる。サインを求める人々を掻き分けて、ようやく隼人の隣に座った。
 嬉しいことに、力人や海、みなとも来てくれた。隼人はオフィス・パッショネットから独立したけれど、彼等とまだビジネスの関係はある。隼人はよく、みなとにスタイリストの仕事を頼む。今でもみなとの側に行くと、みなとの香りがして、隼人の頬が赤くなる。
 最終審査まで残ったコンテスタントが舞台に揃った。審査員達へのインタビューがあった。
「モデルを審査する時、なにを基準にされましたか?」
真面目なことを言う奴が殆どだった。やる気がどうだの、スリーサイズがどうだの、性格だどうだの。テレビカメラが隼人に向けられた。
「男は顔じゃない、御尻ですよ。いい御尻で、俺がベッドに押し倒したくなる男、それだけです」
 観客や、舞台の上からも大きな拍手が起こった。拍手の中で、隼人は立花の下でサラリーマンをやっていた自分を思い出した。会社から逃走したこと。上野に逃げたこと。ハローワークに行ったら採用され、オフィス・パッショネットで働き始めたこと。なんの会社かも知らないのに電話取ったこと。みなとや和夜やアーンギェルに会った。ミハイルや三人のロシア人達にも会った。そしてタチアナとジークフリートとの奇妙な出来事。
 アーンギェルが審査員席のテーブルの下で手を握ってくれた。隼人の天使。力強い翼を背負った。
 以前の寂しい、近所のスーパーでサラリーマン・スーツを買うサラリーマン隼人は消えてしまった。「五分後に自動的に消滅する」。その言葉と一緒に。魔法みたいに消滅した。永遠に。
 短い間に起こったカラフルな宝石のような出来事が、隼人の心からゆらゆら浮き上がって空中に集まると、花火みたいに大きな音を立てて花開いた。それから空気みたいに軽い微かな火の粉がゆっくりゆっくり落ちて来た。
 
 
 

6/23/2023
書き下ろし



note内の創作サークル、NEMURENU参加作品。
テーマは「自動的に消滅する」。

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