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小説『アーンギェル Aнгел 第1章』

あらすじ
サラリーマン隼人は会社の命令でAIプリンセス・タチアナを構築する。友達のいない隼人はAIに御友達を作る能力を与える。タチアナはハッカーと化し世界中のAIに侵入し御友達になる。隼人は巨大化した彼女を恐れ情報を消去し会社から失踪する。上野に潜伏した隼人はハローワークの紹介で呑気なモデル事務所に職を得る。ロシア人を父に持つモデル、アーンギェルに戦争に反対し兵役を逃れ日本へ潜入するロシア人達を紹介される。アメリカにある世界最大のAIに侵入したタチアナを倒す為ロシア人達の強力な頭脳が集結される。ロシアが誇る『白鳥の湖』のプリンス、ジークフリートをタチアナに仕向ける。恋に溺れ弱体化した彼女はみるみる消滅していく。

 
 身体が重い。地球の引力が身体全部を押し潰している。押さえられて身体が動かない。だからニュートンやガリレオ・ガリレイ等の偉い物理学者の言うことは聞かねばならない。
 ネオンの果てることのない東京にも、こんなに完璧な暗闇があったんだ。それとも自分の目が見えなくなっているのか。光る目をした夜行性の動物だけだ。こんな暗闇の中でも物を見ることができるのは。動物は暗闇で吠えたり、超音波を発したり、それで仲間と連絡を取る。
 空調の音が低く唸る。そっくりだな。自分がよく観ていたアメリカのポリスストーリーに。銀色に光る巨大冷蔵庫みたいな死体を入れる棚があって、それは引き出しになっている。
 引き出しは上下左右に三段ずつになっている。医者みたいに手術服に手袋の検死官が取っ手を引くと、遺体の剥き出しの足が出る。親指から札が下がっている。札がアップになって、遺体の情報が画面に大きく映る。
 
三ツ木隼人 二十八才
職業 サラリーマン
死亡推定時刻 五月一日 午後六時
死因 不明
 
 そういうようなことが書かれている。そしてその札は銀色のワイヤーで指にぶら下げてある。ドラマだと、引き出しを引っ張ると遺体が振動で揺れて、一瞬だけ生き返ったように見える。揺れは遺体が出された後も余震で暫く揺れている。生き返ったみたいに。冷たい銀色のワイヤーで吊るした札も一緒に揺れる。それでも死人は死んでいるからくすぐったくない。
 隼人は考えた。もし自分が死んでいるなら、空調の音はただの幻聴だ。その幻聴である空調の音の響きだと、自分のいるのはドーム型のコンパートメントだ。足と顔は寒いけど身体はそうでもない。きっとなにか衣服を着けている。ドラマだと、引き出しを開けると白い煙が出るから、ほんとはもっと寒い筈だが、そうでもない。
 隼人の体感時間が会社に行く時間だ、と告げている。早く支度をしないと。シャツはどこ? 靴下は? こんなに死んいでる最中に会社へ行くことを考えるなんて、二年間のサラリーマン生活が恨めしい。
 隼人はもう仕事へ行かなくていいんだ。こんなに死んでいるのだから。夏休みの初日の様な気分だ。こんな日がやって来るとは。隼人は父の様に髪がすっかり白くなるまで会社へ通うことを信じていた。父の様に目が濁って、被害者の諦めた足を引き摺る様になるまで。一流の有名企業だ。自分から辞めるなんて思ってもみなかった。
 
 隼人は会社の機密を持ち出して逃げたから殺された。会議室から逃走した時、あの女は信じられない、という顔をした。会社の忠犬だった隼人がリードを食い千切って逃げるとは思っていなかった。
 あの女は隼人が死ねば、あいつのものになるのだろう。しかし、自分が死んだくらいで他の男のものになるような女はいらない。その女はいつも比べていた。いつでもどこでもなんでもなにかと比べるんだ。それしか生きる方法がないんだ。それがなければタイトなスカートの良く似合う、いい女だった。
 隼人は回顧した。あの女は頭が切れ過ぎたんだ。欲望に溺れたくないんだ。ベッドに誘う前に男のスペックを比べる。女の身体の中で、動く俺達のものを比べていたんだ。
 隼人とあいつはライバルで、隼人の方がいつも一歩先だった。だが、隼人はあいつとも他の誰とも、自分を比べたことはなかった。昨日のプレゼンは完璧だった。しかしプレゼンの後、隼人はその全ての機密をUSBに書き込んで逃走した。プレゼンの最後のページにこう書いた。
 
This repot will self-destruct in five seconds.
 
「この報告書は五分後に自動的に消滅する」
 
 隼人の好きなアメリカのドラマに、必ずテープレコーダーが煙と共に消滅するシーンがあった。白い煙が大袈裟だろうこれは、くらいしゅーしゅーと舞い上がる。テープはカセットテープではなくて、映画のフィルムに似ていて大きい。そのドラマは、さっきの足の指にワイヤーをぶら下げるポリスストーリーとは違う。
 それはスパイシリーズだ。男前の格好いいスーツを着たスパイが、テープレコーダーに仕込まれた次のミッションを、謎の親分から受け取る。ドラマのオリジナルでは「This tape will self-destruct in five seconds.」と言う。「このテープは五分後に自動的に消滅する」という意味だ。隼人はこれを最後に会社に叩き付けたかった。隼人が中学生の時、瞬きもしない程の勢いで観ていたドラマだった。まさか現実になるなんて……。
 プレゼン後、隼人はUSBを引き抜いた。その瞬間、会社にあった隼人のプログラミングが全て自動的に消滅した。会議室に吊るされたスクリーンに、白い煙の像が上がった。隼人が構築した何万もの光の粒と一緒に弾け飛んだ。
 今や、隼人と共に逃走したUSBの内部にだけ機密は存在する。隼人は考えた。俺は死んでいる。でもUSBは絶対会社に渡さない。プログラミングのコードネームは「タチアナ」。
 
 隼人の鼻の奥から暖かくねっとりしたものが流れてくる。それが喉の奥に貼り付きながら降りてくる。近頃、隼人は大量の鼻血に苦しんでいた。寝ている時にそれが起こることもあった。あっちこちを調べた挙句、医者はストレスですね、鼻の中にワセリンを塗るといいですよ。
 今、感じているのがそれだ。寝ている時、鼻血は鼻から出ず、喉に出る。血はやがて喉を塞ぐように溜まっていく。隼人は死を覚悟した、ってもう死んでるんじゃなかったのかな?
 隼人は手を動かそうと試みた。しかし、手は重過ぎたので直ぐ諦めた。今度は指先を動かした。動いた! ほんの少しだが。指の動きが脳に響いて、脳が爆発的に隼人の身体に指令を出す。鼻血が喉を完全に塞ぐ前に身体を動かすんだ。隼人は身体を起こして、口の中の大量の血を吐き出した。
 何度も何度も、鉄の味と匂いのする血を吐いて、最後に喉に詰まっていた、大きな血の塊が出た。すっかり息ができるようになった。血の塊は、信じられないくらい大きくて、握りこぶしくらいの大きさがあった。暗がりで発光し、隼人の方を見て、ぷるぷる震えながら笑っていた。医者はなんでもストレスのせいにする。年寄りにはなんでも加齢のせいだと言う。誰かがノックする音。
「御客さん、今晩も御泊りになりますか?」
 年寄りの声。コンパートメントに吊られたカーテンが光に揺れた。
「すいません、俺、シーツ汚しちゃって。弁償します。洗っても駄目そうだったら」
年寄りは隼人のいる所へ、短い梯子段を登ってくる。いい歳の割に背筋がしっかり伸びて、きっとカプセルホテルなんて、忙しくて体力もいりそうな仕事をしてるから元気なんだ、と思った。
「御客さんたらもう、なに言ってるんですか? なんともないでしょ?」
年寄りはシーツをバンバン叩いた。もう昼間になっていた世界の光が隼人を襲った。大量に吐いた筈の血はどこにもなかった。
 
 隼人は全財産の入った丈夫なアタッシュケースをぶら下げて外へ出た。家へ帰っても社の連中に捕まるだけだ。彼は通りを歩き続けた。ここは上野だ。上野には上野にしかない上野の匂いが漂う。誰も彼がここにいるとは夢にも思うまい。
 不安な気持ちに反して、無駄に天気が良い。足になにかが勢い良くぶつかる。汚い野良猫が追い掛けっこをしている。逃げる方も追う方も真剣だ。あれは遊びでやってるんじゃない。なんだか知らないけど、必死に追っ掛ける理由があるんだ。
 アメ横に最後に来たのはいつだろう? アメ横の原色と過剰なエネルギーに辟易する。隼人は更に太陽の下を歩き続け、国立科学博物館に入った。背筋がぞくっとする。その理由は、太陽の熱気から、突然冷房の効いた大きな建物に入ったからばかりではない。
 大ミイラ展だ。世界中から集まったミイラ達が、一斉に隼人を迎えた。怖いもの見たさで一つ一つ見て行く。古い時代に生きたこの人達の人生を思う。彼等の時代にも、女を争ったり、権力を奪い合ったり、ということがあっただろう。隼人の逃走劇なんて、彼等の人生と比べたら小さいに違いない。
 ミイラ展を過ぎた隼人は、常設展へ進んだ。そこらに跳ねている小学生達よりもずっと熱心に見て回った。ここに展示してある生物達の進化の歴史に比べたら、隼人のいた会社なんて、つい昨日できたようなものだ。
 トレンディーなIT産業に参入する為大金を投資して、結局行き場がなくなっただけ。自分達より頭のいいものを創ろうとした。人間は神ではない。神に挑戦してはいけない。なぜ会社にはそんな単純なことが理解できないのか?
 
 売店でサンドイッチを買って、木陰に座り込んだ。隼人の大好きな卵サンドと甘めの缶コーヒー。木の上から雀が色んな話をしてくれる。たわいもないのが多いんだけど。どこそこの辺りにエサが多いとか、どこそこの雛が何羽孵ったとか。その内の一羽が言う。働かざる者食うべからず。雀って意外と真面目なんだな。
 ゴミを纏めて屑籠へ投げて、上野の町へ戻る。なにやらとてもポジティブなグリーンの光線を出している看板が目に入る。グリーンはオレンジ色の太陽光線と手を繋いで、躍る様にスキップしながら一緒にぐるぐる回転している。……ハローワーク?
「この学歴と職歴だと、ハローワークでは難しいと思いますよ。上野ですし」
丸眼鏡の若造が隼人の書き込んだ用紙を広げながら言った。隼人は求人と上野にはどういう相関関係があるのだろう、と考えた。さっきの躍るグリーンから受けたポジティブなオーラは気のせいだったんだな、残念だな、と思ったら、丸メガネが唐突に「あっ」という声を出した。
「あっ、この趣味欄に書いてあるの、いいですよ……。御紹介したい会社があります」
丸眼鏡はコンピューターから位置情報を取り出して、隼人の為にプリントアウトしてくれた。特にアポイントメントはいらない、ということだった。時計を見た。午後三時。会社を訪問するのに悪い時間ではない。
 携帯で現在地を確かめながら歩いた。一般の人として生活する。きっとそれはいい考え。先程のグリーンとオレンジも、まだ隼人の頭上で手を繋いで元気に回っている。グリーンとオレンジは時々、手乗りインコみたいに隼人の頭や手に止まる。小さな冷たい足がひやっとする。景気の良い歌を披露してくれる。永遠に続くポジティブな、見事に、はもった輪唱。
 隼人は上野は不調法である。いや、上野は詳しいが、ただこっち側の上野は不調法、という意味だ。さっき行った国立科学博物館から上野駅を超えた、こっち側だ。どう見ても観光客だというなりと動きをする輩が目立ってきた。
 電信柱に矢印があり、「浅草寺」と書いてある。浅草寺ってもっと遠いのかと思っていた。そしたら今度はまた矢印があり、「東京スカイツリー」と書いてある。頭を上に持っていくと、成程さほど遠くない所にスカイツリーが見え隠れする。隼人が逃走して来た会社は渋谷区初台一丁目だ。皇居のこっち側は彼等の行動範囲外だ。捕まる確率は低い。
 
 ドアが薄っすら開いている。隙間から覗いても、中に人のいる気配がしない。明かりは点いているけど薄暗い。ドアを少し押してみた。ぎいぎいと音がする。ドアは安っぽい一枚板で、隼人の頭に安普請という死語が浮かんだ。剥げかけた金色のドアノブが付いている。そのドアノブはヴィンテージっぽい、呑気な球形をしている。会社の看板とか、そういうのはないらしい。開けっ放しのドアから推理して、この会社には財産がないか、財産は他の場所にあるとみた。
 中に一歩入ってみる。隼人は驚いた。建物の外観から予想していたよりは随分広い。江戸川乱歩の小説に出て来る、変なからくりのある部屋みたいだ。小林少年が怪人二十面相に閉じ込められて、変装した明智小五郎が助けに来る。
 誰もいないし、仕方がないので、ハローワークでもらった番号に電話してみた。何処かで電話が鳴っている。部屋の壁を背にした机が一つあって、その上に乗った家電が鳴っている。隼人は試しに電話に出てみた。やっぱり電話から聞こえるのは隼人の声だった。
 電話はドアノブとマッチした金色で、一九七〇年代辺りの、隼人の好きな、自動的に消滅するスパイシリーズに出てくる様なものだった。電話を握る部分が金色で、台の部分は白で、ダイヤルが金になっている。どんな所に行くとこんなものが買えるんだろう、と隼人がいぶかしがっていると、部屋の奥にある階段を誰かが駆け下りて来る音がする。
 その人が床に着地して、電気のスイッチを入れた。隼人は驚いた。明るくなると、その部屋の四つの壁全体がぐるっと鏡になっているのが見えた。まるで宇宙船の中だ。隼人が動くと鏡の中の隼人も動く。そして遠い宇宙へ連れて行かれる。本当に轟音と共に宇宙船が飛び立つ振動を感じた。
 その人は鏡に見入っている隼人にスマイルした。隼人はその人が本物の隼人でなく、鏡の中に映る沢山の隼人の一つにスマイルしているのが分かった。隼人は本物のその人を探した。
「連絡ありました。ハローワークから」
声は意外な方向から聞こえた。隼人はその人の鏡に映った像を本物だと勘違いしていた。その人は両肩を剝き出しにしたワンピースを着ていた。丈がもっと長かったらウェディングドレスに見えただろう。
 ヘアスタイルも込み入っていて、複雑にカールしたロングヘアに、細い三つ編みが絡んでいる。なにも履かないストッキングの足先が妙にそそる。
「丁度いいタイミングだった。社長に紹介するから上に来て」
彼女の声は、壁の鏡に投げたゴム毬の様に四方に弾んだ。隼人は自分が赤面しているのを感じた。隼人の周りにいた女性社員には絶対いないタイプだ。会社にいる女達は飼い慣らされた雌鶏みたいに画一的だった。自信がないんだ。出る杭は打たれるから、怖いんだ。
 この人は違う。スタイルは彼女の心の表現なんだ。
「急いでね。これから僕達出掛けるところだから」
「……僕達? 僕なの?」
登っている階段の中間で隼人は大きな声を出した。階段の上まで来たところで、自分の名前は、みなとだと教えてくれた。
「平仮名でね。みなと」
 
 二階は住居になっていた。広いワンルームだ。遠くにキッチンが見えて、バスルームらしき一角もある。大きなベッドに寝ている人の足が見えた。隼人はポリスストーリーの死人を入れた引き出しを思い出した。引き出しを開けると振動で生きた様に見える。
「社長、ほら、時間ですよ!」
 毛布がごそごそ動いている。中から長めのぐちゃぐちゃになった髪の男。
「いい人が来てくれたから、僕達もう安心ですよ」
隼人は聞いた。
「なんで僕なの? あ、すいません。そんなこと聞いてもいいのかどうか……」
社長はよろよろ起き上がってバスルームの中へ消えた。なんだかアルコール臭い。二日酔いなんだな。
「いいですよ。あんまり人をがたがた悩ませるのも嫌だから。僕ね、女の子と男の子の丁度半分半分なんです」
みなとはスカートの両端をもって広げた。プリンセスがやるみたいに膝を折る御辞儀をした。
「僕、って言うことは、中身は男の子なんだ。でも外見は女の子なんだ。……あ、でも貴方の恋愛対象は? すいません。こんなこと聞いてもいいのかどうか……」
「いいですよ。僕、身体は男の子でゲイだから、ゲイバーとかに行く時は男の子の格好。男が二人いないと燃えないんで」
隼人がすっかり混乱した頭の中を色々整理整頓していると、社長がすっきり髭を剃って出て来た。
「君、なに、どっから湧いて来たの?」
声はまだ半分寝惚けている。みなとが社長に服を手渡している。パステルブルーのTシャツの上から、ちょっと高そうな幾何学模様のシャツ。下はドレッシーな折り目の付いたジーンズだった。隼人はそれを見て、堅気ではないな、と推測する。
「あの、僕、ハローワークから来ました」
「誰がハローワークなんかに求人出したの?」
社長は細かい水玉のカラフルなソックスを履こうとして、よろよろよろめく。
「僕ですけど。社長、贅沢言ってられませんよ。人手不足なんだから」
みなとが社長の背中を後ろから支えて、なんとかソックスを履き終えた。
「君、なんでそんなサラリーマンみたいなカッコしてんの?」
「昨日までサラリーマンだったもので」
「へ」
それは「へー」にもならず、「へ」で完結していた。隼人はとても堅気とは思えないこの二人のなりを見て、なんでか分からないながらも、申し訳なくて頭を下げる。
 
「なになに、なんで家に来たの?」
社長が自分のスタイルを鏡の前でチェックしながら、隣に映っていた鏡の中の隼人に聞いた。
「ハローワークで英会話が趣味と書いたら、ここを紹介されまして」
隼人はハローワークでプリントしてもらった履歴書を見せた。社長はベッドに座って読み出した。
「へ、マジで! マジで東大出てんの?」
驚いて、折角座ったのに、また立ち上がった。
「日本の大学は覚えるだけで入れるから。応用するとか分析するとか、そういうのはないんで」
「バークレーに研究留学?」
社長の目が大分覚めてきた様子。そこへみなとが茶々を入れる。
「バークレーって、死ぬほど天才級に頭いい人しか入れないとこですよ。有名な会社を設立した人とか、ノーベル賞とった人とか」
「へ、なにしてたのバークレーで? ……AIの開発? ねえ、それちょっと御洒落じゃない? やっと、ここにきて初めて」
隼人の脳裏にAIという言葉が暗く、辛く響いた……、コードネームは「タチアナ」。俺のタチアナ。
 
「みなと、どうすんの俺達、この東大出」
「社長、しょうがないですよ」
「そうだよな、しょうがないよな。じゃあさ、みなと、この人になにか服着せてやって。これじゃあここに置いて行けない」
服着せてやって、か。今着ているのは服、と呼べないんだな、と隼人は理解した。社長は呆れたように、いつまでも隼人のサラリーマン・スーツを、上から下までと下から上までをじろじろ見ている。
 隼人はみなとに三階へ連れて行かれた。階段を登りながら、隼人はみなとのスカートから出たストッキングの白い足が動くのを見詰めた。なんだか高そうな暗がりで光っているような奇妙なストッキングだった。
 三階は倉庫みたいになっていて、ハンガーラックが波の様に部屋いっぱいに並んでいる。掛けてある白い布を一つ捲ってみたら、びっしりと並んだ服の山。古いものも多い。ヴィンテージと言うよりは、アンティークな服だった。
 ……なにか小さく喋る声がする。誰かいる? 隼人は声のする方を目で追った。服の山のあちこちから聞こえる。きっと前世でその服を着ていた人達の声。百年前に作られた服のオリジナルの持ち主は、多分もう死んでいる。大人サイズの服だったら絶対もう死んでいる。服の中身の身体は消えて、抜け殻だけが遺っている。
 みなとは恐る恐る隼人の着ているジャケットに触る。
「こういうスーツって何処に行ったら買えるの? あ、駄目駄目、待って待って、もしかして僕、聞きたくないかも」
「別にいいですよ。ここんとこプレゼンの準備で忙しかったから、このスーツは近所のスーパーで……」
「キャー、やっぱりそれは聞きたくなかった!」
みなとは隼人の背中をばんばん! と叩いた。
 下着と靴下だけにされて隼人はみなとにじろじろ見られた。それからみなとは、隼人の周りをぐるぐる回った。回る度に、みなとの胸元から、さっぱりしたいい香りがする。開きたての白い薔薇。朝靄の中の。
「細いね」
暫く食べる暇もなかったから。敵と戦っていた。コンピューターゲームじゃない。本物の敵と。敵は世界中にいる。寝ている間にも攻撃される。タチアナが危ない。心配しないで、俺のタチアナ。君のことは俺が守る。
 
「冷蔵庫のものはなんでも食べていいから」
みなとは隼人の匂いを嗅いだ。犬みたいに。
「いい匂い。温泉みたいな」
あのカプセルホテル。上野駅前の。あの年寄りが風呂の掃除を待ってくれて、あそこでゆっくり浸かった。人々の親切が身に染みる。行き場のない隼人を。今だって。
 みなとは近くで見てもやっぱり女の子にしか見えない。肌が綺麗で、隼人はどうやって彼が髭の処理をしているのか疑問に思う。その顔で微笑まれると、実は男だということを忘れる。また、頬が赤くなったのを感じた。
 みなとは隼人の胸元へ、いくつも色んなシャツを持って来て、やっとそのラベンダー色のシャツに決めた。隼人が生まれてから一度も着ようと思ったことのない色だ。その上にアイボリーの薄手のサマーセーターを重ねた。下はカーキのパンツ。ブラウンのバックスキンの靴まで履かせてくれた。靴のサイズは隼人にぴったりで、なんだか運命みたいなものを感じたけれども、それは大袈裟かも知れない。
 鏡の前に座らされた。その鏡には周りにぐるっと丸い電球が付いている。ハリウッドスターになった気分だ。
「いいヘアカットね」
みなとは隼人の髪に手を入れて掻き回す。会社の近くに腕のいい床屋がいて、カットしてもらいながらよく眠りに落ちた。みなとはヘアジェルを手に塗った。隼人はクラーク・ケントみたいな七三にされた。こういうのが流行ってるんだな、と隼人は鏡に映る自分に言った。みなとも鏡に入って来て隼人と一緒に覗く。
「隼人ちゃんは、服とヘアによってかなり変わる。面白い。あんまりいないからここまでの人。またやらせて、僕、プロのスタイリストだから」
これは一種の変装だな。怪人二十面相と明智小五郎の。まるで別人だ。大袈裟じゃなく。これなら親でさえ会っても分からないだろう。
 一階へ下りたら社長が待っていて、みなとと一緒に出て行った。社長の「じゃあ僕等は現場に行って来るから」という言葉と共に。景気よく「行ってらっしゃい!」と見送ったものの、隼人は一体、現場ってなに? ここってどこ? 俺ってだれ? と、宇宙船の内部でバレエダンサーみたいに爪先立ちで、くるっと一回転した。
 鏡に映った隼人は、着たことのない服を着た、奇妙な髪型をした、見知らぬ隼人だった。隼人は月に砲弾を撃ち込もうとしたジュール・ヴェルヌの『月世界旅行』の登場人物を思い出した。友達のいない隼人を慰めたのは、世界のSF小説や、アメリカのドラマだった。この宇宙船内にいると、昔の夢を思い出す。隼人は、ぼんやりそういうことを考えていた。
 
 さっき来たばかりの、まだ見知らぬ場所にいると、心細いながらも、新鮮な気持ちになってわくわくする。この部屋にある家具は、さっきの金色の電話が乗っている机と、椅子だけだった。鏡に映った自分をもう一度見て、みなとにここまで変わる人はあんまりいない、と言われたことを思い出した。七三の七の側の顔と、三の側の顔と見比べて、どっちの方が男前か考えた。七の側の、額にかかる部分がくるっとカールになっている。
 隼人の全財産が入ったアタッシュケースを開けた。開ける時、かちっていう金属音がして、隼人の胸をちくっと刺した。
 その中から、できるサラリーマンに見せかけるため、時々掛けていた伊達眼鏡を出した。巨大な鏡に全身を映す。七の側の顔と、三の側の顔と見比べた。……微妙。掛けた方がいいだろうか、掛けない方がいいだろうか、という所でいきなり電話が鳴って、隼人は飛び上がった。
 電話は二つ同時に鳴っている。電話は机の上に一つと、鳴っている方向を見たら、床の上にもう一つある。どっちを取ろうか考えていると、誰かか入って来て、机の上の電話を取ってくれた。必然として隼人は床の上の電話を取ろうとして、その前に、彼がなんと言って電話を取るか耳を澄ませた。「オフィス・パッショネット」と言っている。隼人もその真似をした。
「御電話ありがとうございます。オフィス・パッショネットです」
電話の内容は誰かが何処かで誰かを待っているのにやって来ない、というものだった。入って来た男はやけに背が高い。髭を流行っぽく小粋に生やして、全体的にオーバーサイズの白っぽい服を着ている。宇宙船には良く似合う。
「君、だれ?」
「僕は先程ハローワークの紹介でこちらに来たのですが、ここってなんの会社なんですか?」
「そんなことも知らないでここにいるの?」
考えてみたら、ハローワークでは位置情報を渡されただけで、そこには赤いばってんが殺人現場を示すように描いてあるだけだった。確かに場所しか知らないって変だよな。忘れたんだよな。あの時、英会話のところで丸眼鏡の職員さんもエキサイトしてたし。誰にでも間違いはあるし。
「今の電話なんだったの?」
「なんでも、待ってるのに来ないとかで」
「だれ?」
「なんでも、力人(りきと)さんとかで」
「ヤバい。それ、俺だ」
その、力人という背の高い男は、ばたばた出て行った。
 
 隼人は机の引き出しを掻き回して、この会社がなんの会社なのか探ろうとしたが、手掛かりになるようなものはない。校長室にあるような古い木の机。誰かが暇を持て余して掘ったような傷があちこちにある。隼人は暗号を解くように、傷の意味を探したが、そんなものは何処にもない。
 さっき電話が二つ一緒に鳴ったのはかなりの偶然らしく、ここはあんまり忙しそうなオフィスではなかった。隼人はアタッシュケースの中のいらない物をゴミ箱に捨て始めた。二度と行くことのないバーの会員券とか、二度と行くことのないスーパーのポイントカードとか。隼人の過去が、ゴミ箱に積み重なっていく。
 薄く開いていたドアが大きく開いて、誰かが入って来た。外の明るさで最初は逆光だったけど、逆光を超えたところで見たその人は、目立つ緑色の髪をしていた。
「社長は?」
隼人はどう言ったらいいか考えた末にこう言った。
「社長は先程出掛けました」
「なんだ、社長いないんだったらもっと家でゆっくりしから来ればよかった」
興味深いことに、その緑色の髪の人も、みなとみたいに女装した男子だった。みなとが丸っ切り女性だとしたら、その彼は誰が見ても男性だった。背も高いし肩幅も広い。女性にはありえないくらい。声も男だった。みなとは声も女だった。
 もう真っ昼間ではないけれど、ちょっとは真っ昼間な今頃から、彼は非常にドレスアップしている。裾を引いた、夜のドレス。漆黒の一歩手前のグレーだった。
 その人に聞かれた。
「貴方は誰?」
「こちらに新しく入りました隼人です」
「へえ、可愛いね。俺も社長なんか止めてもっとこういう可愛いのと付き合おうかな」
「貴方は?」
「俺は隣のジャズバーでピアノを弾いていて社長に引っ掛けられたんだけど、後悔してるのよね」
彼は随分綺麗に出来上がった爪をいじりだした。ドレスに合わせたグレーで、獲物を捕らえ、引き裂く為の爪だった。隼人は聞いてみた。
「それよりここって、なんの会社なんですか?」
「そんなことも知らないでここにいるの? 世の中には色んな人がいるんだね」
その人は巨大な宇宙船の鏡に映る自分の姿を見ながら髪を直した。ジャズピアニストらしい、クリエイティブなヘアスタイル。緑色の。毛先が上を向いている。きっと白雪姫の継母はこんな髪をしている。そして、魔法の鏡に聞く。世界で一番美しいのはだあれ? 
 隼人は聞いた。
「でも、そもそもなんで社長なんかと?」
「年上だとセックス上手いし。でもね、嫉妬深いとこもあって。その割に自分には色々いる癖に。……ここ終わったら聴きに来て」
ジャズバーの方向を指差してそう言うと、彼は去った。
 後に香水の匂いが残った。スパイスの効いた。隼人は考えた。上野に来た途端に女装男子二人に会うという可能性は? 低い。それなら何処かに理由がある。隼人は記憶を辿った。上野にはゲイの長い歴史がある。上野公園は今に続くハッテン場だ。それは男が男と出会う場所。そのことは大学の先輩に聞いた。隼人の記憶力は鋭く、忘れたいこともなかなか忘れられない。
 
 久し振りに電話が掛かってきた。出たら、若い男、というより子供みたいな声だった。
「あれ、社長は?」
「社長は先程出掛けました」
「なんだ、いないの? また逃げられた! 今日、一緒に遊びに行くって言ったのに……。御兄さん、そこにスケジュール表あるでしょ、僕の名前んとこになんか書いてある?」
隼人は辺りを見たけれどもスケジュール表らしいものは見当たらない。
「そこの階段の側の白いボード」
そこだけが宇宙船の暗がりになっていた。
「貴方のお名前は?」
「海(かい)、うみって書くの」
「明日、朝八時に第四スタジオ」
海は礼儀正しくさよならをして、電話を切ろうとする。
「あ、ちょっと待って。この会社、なにしてる会社なんですか?」
「え、そんなことも知らないでそこにいるの? そんなことより社長帰ってきたら言っといて。ずーと遊びに行くって言ってて、嘘ばっかり」
「なんでそんなに社長のこと?」
「だってあの人、いい御尻してんじゃん」
深いんだな。隼人は今までそんなことを夢にも考えずに生きてきたのだ。
「当たり前ですよ男なんて。それ以外になんかあります?」
彼はこんなに若そうなのに、このように人生の深淵を見据えている。
 
 そうか、男って御尻なんだ。隼人は、自分の御尻に一度も注目したことがないのに気付いた。御尻に謝りながら鏡で見た。だけど自分の御尻ってなかなか見えない。こうかな、ああかな、と考えながら、やっと満足のいく様な感じに見えた。
 しかし、そもそもどんな御尻が好まれるのか分からなかったので、折角見た意味は余りなかった。それに、あんまりぐるぐる回って御尻を見たから目が回って、鏡張りの宇宙船が、またぐらぐら轟音を上げて発射するような気がして、へたり込んだ。
 ドアが開いて、背の高い若い男が入って来た。彼の美しさは驚く程非現実的だった。隼人は暫く彼の純白のぐるぐる回る後光に見惚れた。
「あれ、社長は?」
床にへたり込んでいた隼人は急遽、椅子によじ登った。
「社長は先程出掛けました」
先程、と言うには時間が経っているな、と気付いたけれども、訂正すると余計ややこしくなるから止めた。みなととか、さっきのピアニストとか、この男前とか、隼人の今までの生活には関係のなかった人種がここには磁石の様にくっ付いて来る。
「あの……、やっぱり男って御尻なんでしょうか?」
「どうして?」
「だって、みんな社長ばっかり」
男前は隼人を立たせると、御尻をよく観察した。
「君の御尻だって悪くない。安心して」
隼人は安心した。彼は隼人の御尻の上の、腰寄りの辺りをぽんぽん叩いた。
 彼の目を見たら視線を外せなくなった。何処かで会った? そんな筈はない。でも見たことがある。隼人の頭に、前世という言葉が浮かぶ。彼の目はアイラインでくっきり囲んだ様に力強く見えたけれども、よく見たけど、みなとや、ピアニストみたいに化粧はしていない。
「そんなことより、この会社ってなにしてる会社なんですか?」
「そんなことも知らないでここにいるの?」
隼人はアイコンタクトは苦手な方だけれども、彼の目を見詰めたまま、大分時間が経っている。
「失礼ですけど貴方は?」
「俺? 別に用はないんだけど、通り掛かったから」
「それでは全然答えになってませんけど……」
彼に対する既視感は彼の身体全体から発している。この人にまた会えるんだろうか? 会えなかったら泣いてしまいそうな。
「……だって僕、貴方は誰ですか? って聞いてるんですもん」
「なんでそんなこと知りたいの?」
「だってそれが分かれば、この会社がなにしてる会社か分かるかも知れないでしょ?」
「なんだ、だから知りたいのか。純粋に俺のことを知りたいのかと思った」
男前は靴の先で床の上に、のの字を書く。
「じゃあ、貴方のことを純粋に知りたいです」
「さっきはそうじゃないって」
「さっきのが間違いです」
男前は反対側の靴先で反対向きの、のの字を書く。
「じゃ、君が嘘をついてないとして、なんで俺のことが知りたいの?」
「それは男前だし、素敵だなって」
「ちょっともう一度君の御尻をよく見せて。ちょっと触ってもいい?」
触られている内に隼人は、彼に既視感もあるけど、彼の未来も知っている様な変な気もしてきた。隼人はこんな風に同性に魅力を感じたことはない。男子校の常である、下級生から切手の貼ってある立派な恋文を貰って困惑したことはある。
「……多少硬さに欠けるけど、外見からは分かんないこともあるから。君、ここ何時まで?」
「さあ?」
「それも知らないんだ。俺ちょっと通訳の仕事があるけど、終わったらまた来るから、そしたらどっか行かない?」
もう一度彼の目をちゃんと見た。やっぱりアイラインを引いているような印象がある。特に目尻が跳ね上がる様に。不自然ではない程に近付いてよく見たけど、やはり化粧はしていない。もしこの人が女性だったら隼人はどうしただろう? この人が女だろうと男だろうと関係ない。やっぱり彼に惹かれるだろう。
 一緒に何処かに行こうなんて言われて隼人は大仰にはにかんだ。
「いいじゃない、そんなに大袈裟に考えなくても。普通にデートから始めれば。俺ね、名前はエンジェル」
エンジェルなんて。日本人には見えなかったけど。未知の世界の人だったんだな。隼人の目には、エンジェルが翼を広げて、力強く空に飛び立った様に見えた。雲を蹴散らかして飛んで行くのを見送った隼人の目の前に、羽がゆっくり落ちて来た。隼人はそれを捕まえて、ポケットに入れた。風は無かった。
 
 オフィス・パッショネットは引き続き静かで、やることもなかったから、隼人は主にエンジェルのことを考えていた。あんなに男前の人が、こんなに男経験のない童貞と、ほんとにデートする訳ないな、と思えてきた。
 隣のジャズバーのピアニストが、再度社長のことを聞きに来た。
「社長からは全然連絡ありませんよ」
「なんだ。やっぱり社長のことなんて、考えんの止めよ」
彼は鏡の前に座り込んで、化粧直しを始めた。スポンジみたいなものに粉を取って顔中にはたいた。
「ここは明るいからね」
そう言って、今度はオレンジ色の頬紅を盛大に塗り出した。
「それより、この会社ってなにしてる会社なんですか?」
「こんな長い間いて、まだ分かんない?」
彼は鉛筆状のもので眉を描き始めた。手慣れた様子に彩人は感心した。やや太めに描かれた眉が、男の骨格に良く似合う。化粧とは絵を描くのと同じだな、と隼人は初めて気付いた。オレンジ色の頬が緑色の髪と溶け合って、夢に誘う。
「手掛かりは、あそこに掛かっているスケジュール表だけです。名刺一つないんですよ、このオフィス」
「会社の名前くらいは分かったでしょ?」
「オフィス・パッショネット」
「じゃあそれで検索すれば?」
「なにも出てきません」
「だから仕事ないんだ、この会社」
髪をブラシで梳かす。あれはウイッグなのか、本物の髪なのか、隼人はじっと目を凝らす。
「もしかしてこれって、ペーパー・カンパニー?」
「そんなことないって。だって、スケジュール表があるじゃない」
彼は、抜けた緑色の髪をブラシから取ってゴミ箱に捨てた。隼人はあれからあれが本物の毛かどうか特定できるな、とエキサイトする。
「でもこのスケジュール表、名前が三人しかないですよ。さっきこの内の一人から電話がきました」
「でしょ、実在するでしょ」
「それにさっき、この中のエンジェルさんがここへ来て、俺の御尻は悪くないって」
「男の言うことなんて信じない方がいいですよ」
「エンジェルさんは、ちょっと用事があるけど、戻って来るからデートしようって」
「だから、男の言うことなんて信じない方がいいですよ」
隼人は、やっぱりデートなんて現実化する訳ないよな、と寂しく思う。胸に開いた穴を冷たい風が吹き抜ける。ピアニストはバッグから大振りのイヤリング取り出した。
「貴方は、社長と別れてどうするんですか?」
「それはまだ決めてない」
「貴方はどういうタイプが好きなんですか?」
「なんでそんなこと聞くの?」
彼はすっかり出来上がった姿で自撮りして、隼人にも頼んでシャッターを切らせた。隼人は撮った写真を見たけど、複雑なフィルターが掛かっている様だった。イヤリングが光って、揺れて流れて、幻想的な写真に出来上がった。
「貴方は素敵だし、ピアノを弾いているところも見てみたいな、って」
「今の結構良かったですよ。アプローチとしては」
「もし貴方が社長みたいに、セックス上手い人が好きなんだったら、僕みたいな、男に童貞な奴、相手にしてもらえませんよね」
「いいじゃない、童貞。俺の好みに仕立ててあげる。……とにかく社長と別れないと」
「いつ?」
「今夜にでも」
男の言うことなんて信じない方がいいな、と隼人は思う。
「貴方の御名前は?」
「和夜(かずや)」
 
 ここにいると、色々な男に色々言われるけど、信憑性に欠ける。思い出したけど、英会話が必要な場面ってまだ全然ない。隣のジャズバーから音楽が聴こえてきた。このオフィスは安普請だから良く聴こえる。
 上野にしてはスローで暗く深刻なジャズだった。聴いている内に、この会社がなんの会社なのか、という興味が薄らいできた。隼人は和夜のことを考えていた。和夜は社長がセックス上手いって言ってたけど、セックス上手いってどういうこと? 
 そうしたら突然、奇跡的にいい案が浮かんだ。ハローワーク上野に電話してみよう。電話受付は夜八時までだと書いてある。時間を見た。……八時十五分。
 兎に角ウェブサイトがないと仕事にならない。アタッシュケースからPCを取り出した。なにをしている会社なのか不明だから、そこのところだけ空けておいた。驚いたことに、それでもウェブサイトは意外と作れるものだった。
 
 鍵の開けっ放しのドアが開いて、若い男性がはにかみながら顔を出す。彼と一緒に夜風が滑り込んで来た。ますます暗く深刻なジャズと一緒に。
「こちらの募集広告を見て来ました」
 携帯でサイトを見せてもらった。きらきらしい絵文字がたくさん並んでいる。「男性モデル募集」。ああ、そういう会社だったんだ! 隼人は非常にエキサイトしたけれども、それを顔に出してはいけないと思って努力した。だが、多少は顔に出ていたに違いない。隼人はやっと謎が解けた喜びを、静かな微笑の中で胡麻化した。
「社長が外出中なので、後日こちらから連絡いたします」
素人ながら、隼人は若者のことを可愛いと思ったので、連絡先を聞いて、簡単に写真も撮ってあげた。
 ここからは楽しい仕事だ。さっきの募集広告だと、オフィス・パッショネットは特に男性ファッション・モデルを扱っている。世界中にある同業者のサイトからフォーマットを盗み出し、隼人は最強のウェブサイトを構築した。
  次のステップ。隼人は緊張した。法人、個人の情報を盗むんだ。完全に法に触れている。エンターキーを押すだけで犯罪は完成する。手が震える……。みなとが冷蔵庫のものはなんでも食べていいと言ってたな。
 隼人は階段を駆け上がり、冷蔵庫を開けた。クラブソーダしか入っていない。あらゆるブランドのクラブソーダ。派手な彩色の缶が並ぶ。なぜクラブソーダなのか。そのことについては後で考えることにして、机に戻って、選んだピンク色の缶を開けた。泡で少し咳き込む。ここから後には戻れない。しかし、隼人は証拠を残すような仕事はしない。自信はある。……指がキーを押した。
 大手モデル・エージェンシーのサイトに不正アクセスする。その大手のサイトを検索した企業を洗い出す。企業のコンピューターに不正アクセスし、どんなモデルを、なんの目的で探しているのか洗い出す。こちらからタイムリーで完璧なプレゼンができる。
 作成したプログラムに名前を付ける。なんにする? さっき会った男の名前。エンジェル。そしていつもの一行。これは製作者、隼人のサインだ。
 
This program will self-destruct in five seconds.
 
「このプログラムは五分後に自動的に消滅する」
 
 ただのサインだ。本当に消滅する訳じゃない。試しに最初に電話を取ってくれた、力人の情報を入力しよう。あんまりない名前だし、彼には一度会っている。検索すると彼の写真がいくつも出て来た。CMがある。いい笑顔だな。爽やかな白い歯。走る、走る、草叢に倒れ込む。元気いっぱいの動画。プロフィールに動画を入れる場所を作ろう。
 
 夢中になっていると、あろことか、男前のエンジェルがそこに立っている。翼を振るいながら。細かい水滴が幾つも跳ねる。雨? 気付かなかった。この人はいつの間に、何処から入って来たのだろう。まあ、入り口は一つしかないけど。百パーセント戻って来ないと信じていた。
「ほんとに帰って来るなんて」
「信用してないんだ。俺のこと」
 二度会っても既視感は消えない。それどころか、もっと強くなる。彼の目を見たまま動けない。隼人は人の目を見るのが苦手だ。カリフォルニアにいた時だって。アメリカでは人の目を見ないのは隠し事があるからだと言われた。だから見ないと駄目だって。実際、隼人には隠し事は色々あるけど。既視感。この人にいつ会った? どこで会った? 
「こんな時間に開いてるの見たことないから閉めちゃえば?」
「ちょっと待って、君の情報をインプットしよう。さっき、フォーマットを作ったから。名前、年齢、写真、その他」
「名前はエンジェル、二十五才」
「本名?」
「そう」
エンジェルはネット上で出たばっかりのファッション誌を見せてくれた。
 薄暗い部屋。アンティークな浮彫のあるベッド。エンジェルはベッドに座っている。裸の上にタキシードジャケットを片方の肩に掛けている。
「この雑誌、よく出てるんだけど、なかなか服を着せてもらえない。退廃がテーマなんだって。ファッション誌なのに服がない」
「綺麗な身体だから」
隼人がそう口にした時、二人の間に新しい緊張感ができた。
「この写真は使えないな」
着痩せするんだな。肩や胸にこんなに筋肉が付いている。表情は暗い。もっと健康的なものにしよう、と隼人は提案したが、あんまり健康的なものはない。大抵はスーツで絶望した顔をしている。横顔が多い。堀の深さが目立ち過ぎる。これはほんとのエンジェルじゃない。
「エンジェルはどんな仕事がしたいの?」
「表紙をやりたい」
「やったことないんだ。それから?」
「ファッション・ショーをやりたい」
 ジャズバーのドアを開けると、音符が雪崩落ちて来た。ピアノを弾く和夜の姿があった。鍵盤を叩くと緑色の髪が揺れる。力は男なんだ。弾き方が男だ。隼人は音楽に好き嫌いはさほどないけど、この暗さは耐え難く、早く酔ってしまおうと思った。マニアックなファンが、たくさんいる様だった。椅子は二つしか空いていなかった。
 
「通訳の仕事ってなに?」
「そんなことに興味があるんだ。ロシア語」
「ロシア語なんだ」
「父親が……」
音楽で時々会話が切れる。このジャズの暗さは小難しさの暗さじゃない。頭脳じゃない。心の絶望。生を諦めた人みたいな。アウシュヴィッツの絶望。例えば。
「ロシアからアジアに移動している。兵役を逃れて。みんな国の為に戦争なんてしたくないんだ」
「観光客じゃないんだ」
「仕事を探している。でも俺にはなにもできない。通訳しか」
「彼等は英語できるんだろう?」
「そうとも限らない」
 隼人はさっき構築したばかりのプログラム「エンジェル」のことを考えていた。プログラムを応用すれば、ロシア人を登録して、企業に優秀な頭脳を送り込むことができる。俺達で企業というか頭脳集団を作ることもできる。でも集団を作って一体なにをする?
 彼等は国を脱出することを望んでいる。ロシアに服従して人を殺しに行くことに反発している。隼人が彼等の立場だったらどうするだろう。日本が戦争を始めて、隼人達が戦場に送られたら。隼人にはカリフォルニアにやり残した研究がある。アメリカは隼人を受け入れてくれるだろう。
 日本で戦争が始まったら皆、どうするだろう。体制に流されるだろう。日本人は洗脳されやすい国民だ。今でもそうだ。島国なんだ。大海を知らない。
「タチアナ」
声に出して呼んでみた。隼人は音楽で聞こえない瞬間を選んだつもりだった。でもエンジェルには聞こえていた。
「誰? タチアナ?」
「俺が創造して、俺が殺した」
 
This program will self-destruct in five seconds.
 
「このプログラムは五分後に自動的に消滅する」
 
 このフレーズがリフレインする。……自動的に消滅する、自動的に消滅する。これは隼人のサインだ。隼人のプログラミングであることを証明している。
 ロシアの作曲家ショスタコーヴィチも自己の作品にサインを遺した。彼は一九〇六年に生まれた。
 一小節に四つの音符。DSCHの四つの音階。これが彼のサインだ。Dmitri Dmitriyevich Shostakovichという彼の名前に呼応している。彼の名前はロシア語だとこう書く、Дми́трий Дми́триевич Шостако́вич。この中にDSCHが入っている。
 彼のシンフォニーにもコンチェルトにもカルテットにもサインがある。同じ音階が何度も何度も繰り返される。これは自分が作曲したことを証明している。
「タチアナはロシア最後のプリンセス」
「知ってる。俺は半分ロシア人だよ。革命で殺された四人のプリンセス。その下にプリンスがいた。みんな銃殺された。……革命後だってロシアは変わらない。ロシアは、いつまでもいつまでも、大きな大きな、貧しい国なんだ」
 
 電話が鳴っている。静かに流れる水のような音。隼人のとは音が違う。隼人の電話の音は、もっと命令調で、さっさと出ろ、と言っている音。電話は隼人の寝ている側にあって、エンジェルは眠りが深いのか、音に反応しない。電話に出てみた。
「アーンギェル? アーンギェル?」
男性の声。
「すいません、彼、寝てて」
急用じゃないから、と言って電話の向こうにいる人は電話を切った。朝七時。オフィス・パッショネットは何時から開くのだろうか? ウェブサイトを見てみる? 見ても分からない。夕べ自分が作ったプログラム。時間は知らない。入力する場所だけはある。
「アーンギェル」
隼人はそう呼んでみた。
「アーンギェル、あのオフィス、何時に行けばいいの?」
エンジェルは片目を開けた。
「誰かが電話で」
「ロシア語読み。上手いよ」
 オフィスは九時に開くらしい。ここからなら歩いて行ける。ファッション誌が無造作に積んである。隼人はぱらぱらページを捲る。ファションの仕事をするなんて全く想像していなかった。人をプロモートするのは面白そうだ。数字とコンピューター言語の世界にいたから。生身の人間の暖かさ。
「夕べの、なんでタチアナなの?」
「あれは俺の作ったAIの名前。カリフォルニアで研究している時、ロシア人の友達ができて、それで」
……命名してもらった。タチアナの特徴は横に、何処までもネットワークを繋ぐ能力があるということ。世界中のAIと繋がって、頭脳が巨大化したタチアナは、ある日、隼人に会いに来た。
「スケートボードとかできるんだ」
「それは持ってるだけ」
「幾つくらい、この時?」
「十八とか、十九とか」
「アーンギェルって、なんであんないい加減なところで働いてるの?」
 
「グレてた頃があって。中二病。父親はスパイ容疑でロシアに追われてあんまり家にいない。母親も仕事が忙しくて家にいない。俺は日本人でもロシア人でもなく、自分が誰だか分からない。いい男がいても、そいつは俺の顔がいいから付き合ってるって勘ぐって、自分から関係を滅茶滅茶に壊す。たまたま同じ警察官に二回捕まって、御前が綺麗な顔にこれ以上傷付ける前にって、社長を紹介してもらった。社長は自分の男のことで忙しいけど、みなとはよくしてくれる」
アーンギェルって意外とよく喋るんだな、と感心していると、いつの間にか自分の手にコーヒーのマグが握られている。深煎りのコーヒーの香り。温かさが手に流れる。あっついくらいの。
「なんで捕まったの?」
アーンギェルは赤いトランクス姿で可愛い。隼人は男性とこんな風に関係するなんて思ったことなかったけど、ほら、まだ隼人のアーンギェルに対する既視感は変わらない。何処かで会っている。自分が存在する前。
「無免許運転と飲酒運転と器物損壊」
「バイク?」
「そう」
「じゃ、器物損壊は?」
「不二家の前を通り掛かったらペコちゃんがいて、ムカついて頭蹴ったら壊れちゃって」
「なんかペコちゃんに恨みでもあったの?」
彼がその質問には答える前に、隼人は「あ、これいいじゃない」と声を上げた。いい写真。最近の彼の静止している写真とは全く違う。ヘアスタイルだけでこんなに変わるんだ。面白い。彼はこの写真の中で生きている。飛んで、跳ねて。波の間に、熱い砂の上で。



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