『1、百年経っても読まれる小説の書き方』
ソーシャルメディアのどこを捜しても、書いた小説を批評する、という機能が見当たらない。御互いに読み合うことはあるけれども、いいところを緩く褒め合うだけで、ここはおかしいよ、と指摘し合うことはない。
小説を書く人は、人の意見を聞くのを怖がる。小説というのは、自分の内面の一番繊細な部分を使って書くもので、「小説の書き方」という方便は基本的には存在しないから、みんなは自分自身の設計図に従って、小説世界を創造していく。
だから、書いた小説を批評されると非常に傷付く。小説を書くような人は、そもそも傷付きやすくできている。しかし、自分の書いた小説の問題点は、人に聞かないと絶対分からない。自分では分からない。小説は普通は人に読ませるつもりで書くもので、人に読ませるなら、やはり向上を図らないと駄目だ。
日本人は礼儀正しく生きているから、よっぱど頼まないと、誰も弱点を教えてくれない。頼んだって教えてくれないものだ、と考えていい。本気で頼もう。私はいい小説を書きたいです。あなたが指摘してくれたことはなんでも受け止めるから、思ったことを言ってください。……それでも人は、口を割らない。
なんでかというと、連中は小説を書くような人間は傷付きやすいことを知っているから。しかし、傷付かないと小説は上達しない。どんどんどんどん傷付こう。なにか言われたって、あなたが同意できなければ、別にその通りにする必要はない。あなたの書いた設計図に従って創り上げたあなたの小説世界なんだから、あなたにしか分からない意図があって書いている。
傷付こう。折角書いた自分の小説の一番いいと思っていたシーンを批判されて、傷付いて、毎日一日中、一週間も二週間も、思い出して辛い思いをしても、やっぱり傷付こう。あんな奴に自分の小説のいいところは理解できない、と怒ることがあるかも知れないけど、やっぱり人の意見を聞こう。
私の経験でいうと、いい批評を聞けて、でも傷付いて、なんでそんなことを言われなければならないのだろう、と、その時は分からなくても、二年三年、小説を書き続けるうちに、先生の言ったことが、すっと分かるようになる。ああ、あの時言われたことは、こういう意味だったんだな、と。
書かないと分からないですよ。書いて書いていくと、本を読んでいても、ああ、こういう風に書くといいんだな、と発見したりするけれども、自分が書いていないと、素通りしてしまう。本を読むと、いつもどうやって書くのか分からない、そのことが一気に学べたりする。
文豪の作品を読むと、そこに小説の書き方が全部書いてある。私の先生は、夏目漱石だから、迷ったら彼の作品を読む。私はYouTubeで書評をやっていて、最近、伊坂幸太郎の『マリアビートル』の分析をしたけれども、読む前と読む後では、私の文体がガラリと変わった。そんなこともある。
それじゃあ、一体どうやったらいい先生に出会えるの? というところだけれども……
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