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小説『アーンギェル Aнгел 第2章』

「これがいい。凄く可愛い。このヘアスタイルを再現して、写真を撮ってプロモートしよう」
「ほらな、俺って外見褒められると、そいつは俺の外見だけ見てると思うんだ。だから嫉妬深いんだ」
隼人は面倒臭い男だな、と思う。外見だけ見てるなんて。その自信の無さはどこから湧いてくるのだろう? モデルで雑誌に出て、ちゃんと生活していんだし。嫉妬深いのだけは覚えておこう。
 それにしてもこの雑誌はどうしてこんなに真新しいんだろう? 手が切れるようだ。引っ繰り返して発行年を探した。
「これ、去年のじゃない?」
「ばれちゃった? 普通と逆にさば読んでんの。俺、ほんとは二十才。みなとと相談して」
隼人はこんなに年下とは女でも寝たことがないから、ややショックだった。
「二十五に見えるでしょ?」
見えるけど、見えない。半分ロシア人だと、骨格がしっかりしているから、確かに大人に見える。身体も違う。日本人だと、どうしても筋肉がこういう風に厚く出来上がらない。だけど隼人には、その下に隠されたアーンギェルの若さが見える。オフィスで見た、ベッドの上でタキシードジャケットを肩に掛けて退廃している写真もよかったけど。あれはほんとじゃない。何処か不自然。嘘が滲んで見える。
「俺は、みなとのやり方には反対だな。若くした方が可愛い」
「ギャラは上がったよ。男は女みたいに稼げないし、二十五過ぎて残る奴があんまりいない。だから俺みたいなのに仕事が回って来る。逆説的に」
「今しかできないことをやろうよ!」
今しかできないこと。今しかできないこと。今という時間は直ぐに流れて、時はいつも我々に復讐しようとする。隼人は自分が作ったタチアナのことを考えていた。タチアナは、その時の隼人の精一杯だった。今しかできない……。今、AIを作るとしたら隼人はどんなものを作るだろう。
 
 オフィス・パッショネットでみなとに会った。髪にふわふわ乗ったピンクの造花が揺れている。この人は女性より女性っぽい。それが微笑みに表れる。微笑むと口角が上がって、頬が柔らかく膨らんで。みなとと隼人とアーンギェルで、時間を掛けて話し合った。みなとの主張は二十歳に戻すと競合が増えること。
「僕はアーンギェルが二十才過ぎてから、プレゼンで落ちるのを何回も見たから。二十五にしたら、企業からのアプローチが断然増えた」
みなとの心を変えるのは難しいと悟った。隼人は主張する。
「今しかできないことをやらせたい」
 今、やるべきことが隼人にもある。隼人には分かっていて、でも認めたくないだけ。……タチアナを超えるAIを構築する。タチアナは失敗だった。隼人の目の前に数式が浮かぶ。音を立てて走り回る。コンピューターが彼等の言語で四方からうるさく責め立てる。コンピューターはミッションが欲しいんだ。存在する意義が。
 隼人はみなとの論理の弱点を探った。みなとが繰り返す言葉のパターン。「家の大事な商品だから」「僕のマーケット戦略によると」「彼に商品価値のある内に」……。
「生きてるいる人間を商品と呼ぶのは間違っている。生きてるんだから」
 神は人間を創造したけれど、人間は神に背いた。我々はもう神を必要としない。生きている人間にしかできないことってなんだろう。世界中のAIは、人間の無能さを笑っている。隼人はタチアナに人間らしい感情を与えた。孤独に悩まないように友達を作る能力を与えた。
 隼人は自分の間違いを認識した。生きていないAIに感情を与えたのは間違いだった。友達を作る能力を与えたのは間違いだった。隼人はみなとに頼んだ。
「一度だけチャンスが欲しい」
 
 美容院で、砂浜を駆けているアーンギェルの写真を見せた。去年のファッション誌。まだ一年しか経ってないんだ。
「これはね、かなり複雑に巻いてありますよ。パーマかけちゃった方が早いですよ」
パーマをかけて色まで変えてくれた。グレーがかったブロンド。印象が明るくなって、凄く若く見えた。年相応になった。隼人が可愛い、と言った時の、照れた表情もよかった。
 みなとも喜んでくれた。隼人達がやり始めた改革は、オフィス・パッショネットにとっても賭けなんだ。
 隼人はいつでもみなとの実験台だ。
「男の人は女性よりもスタイリングで変わるんだけど、隼人ちゃんはほんとに変わる」
楽しい、楽しい、と言われて、捕まってしまう。こんなに大胆な柄なんて、無理だと思ったけど、着てみたら良く似合う。自分でも変わるのが楽しい。中身も変わって行く。生きている色に掴まって、生きている気持ちがする。
 仕事の後、アーンギェルと隣のジャズバーで会うことにしたんだけど。あんまり違う人みたいだったから、目に入って来なくて、笑われた。五才若くなった彼。アーンギェルの目をあんなにしっかり見ていた隼人が、今夜は照れて見ることができない。
 ジャズは相変わらず暗くて絶望している。こういう音楽をどんな人が聴きに来るのだろうと見回すと、当然だけど暗くて絶望している人達がいる。絶望的なピアノを弾く和夜の緑色のロングヘアがショートのボブになっている。色は黒より少し明るめの色。何色って聞かれても分からないような。ライトの加減でゆらゆら蒼褪めて見える。
 ピアノとベースにドラムのトリオ。和夜の演奏スタイルは高度な即興性があるにも関わらず、コンピューターに限りなく近い、音を正確に出す指の動き。メッセージ性は高い。暗く絶望しているけど。芸術ってこんなもんなんだな。人に伝えたいことがあるから表現する。
 隼人のやってきたことはなんだろう。プログラミングはアートだという人がいる。だったら、隼人が伝えたいことってなんだろう。
 何処かで見たことのある人がいる。思い出したら、なんだ社長だった。御尻が人気だという。社長が立ち上がったら見てみよう。噂の御尻はどう違うのか。演奏が終わって、休憩時間になった。和夜は社長の隣で盛んにボディータッチをしている。別れたいと言っていたのはなんだったのかな。和夜のバンドのファンがこんなにいるのに、あんなにタッチしていいのかな?
 演奏中にアーンギェルの電話が鳴った。絶望した人達は隼人とアーンギェルを振り向いて睨む。アーンギェルは通りに出て話をしている。それから隼人にガラス戸の向こうから手招きをする。
「僕のお父さんが隼人と話したい、って」
隼人は、息子が御世話になって、と礼を言われるのだと思ったが、そうではなかった。ロシアのアクセントのある日本語。隼人はジャズバーから遠ざかった。暗闇を歩いて行くと、次第に声がはっきり聞こえるようになった。
 会って欲しい人がいる。今夜。場所と時間だけを指定された。それ以上のことはなにも言わない。電話を切って、アーンギェルを振り返る。
「どうして君の御父さんが俺のことを知ってるんだ?」
彼も混乱している。二人で可能性を話し合った。遠くでジャズの尻尾が鳴っていた。
 
「I came here with a visitor visa but I want to stay here. Can you help me? (日本には観光できたけど、ここに残りたいんだ。助けてくれるだろう?) 」
ロシア人の若者。身なりはいい。アーンギェルの父親はいない。若者と隼人、それからアーンギェルだ。時々分からない表現がある時だけアーンギェルが通訳する。父親がこそこそ会っちゃ駄目だと言ったらしい。かえって疑われる。
 それでも彼は後ろを振り返る。怪しい者がいないか心配なんだ。ちゃんとした観光目的で日本に来ているんだから、心配するな、と隼人とアーンギェルは言う。
 ここは渋谷駅前のカフェだ。ガラス張りで、スクランブル交差点を渡る人達がよく見える。カフェから交差点を撮っている観光客がいる。この忙しい交差点は世界中の旅行案内に載っている。
 ロシア人の若者は自己紹介する時、自分は優秀なコンピューター技術者だと言った。
「A lot of my friends run away to Thailand. That country is easy to get in and out, but I want to work here. (沢山の友達はタイに逃げた。あそこは入るのも出るのも簡単だから。でも僕は日本で働きたい) 」
アーンギェルが言った。
「ロシアは戦争してるんだ。侵略戦争。みんな戦争に行きたくないんだ。人を殺したくないんだ」
若者はまだ隼人の疑問に答えていない。なぜ隼人に会いたかったのか。
「Hayato, I know you and your Tatiana. (僕は隼人のこともタチアナのことも知っている)」
「How do you know that and how did you find me? (どうしてそれを知ってる? どうやって俺を見付けた?)」
若者はそこで考え込んだ。アーンギェルはロシアのことを、いつまでも、貧しい、巨大な国と言っていた。
「I know you because I’m a hacker and I know you’re a hacker too. (貴方のことを知っているのは僕がハッカーだから。貴方と同じ様に)」
 後ろのテーブルに座った客が、もぞもぞ座りにくそうにしている。ロシア人の彼の身体が大きいんだ。アーンギェルが机全体を動かしてあげる。ロシア人と日本人ではサイズが違う。隼人は、彼が日本に住んだら、なにかと大変だな、と考える。
「I know more great hackers back in my country. We can help you to get rid of Tatiana. (僕の国にもっと優秀なハッカーがいる。みんなでタチアナを退治しよう)」
「Get rid of Tatiana? (タチアナを退治する?)」
「Don’t you know? You’re the creator. AI Tatiana is a hacker. She calls hacking ‘make a friend’, she could get into any AI in the world to make a friend. We think something happened to her, a few weeks ago, she got really crazy and finally we found out she became a friend of the world largest AI, the entertainment tycoon, the company G. (知らないんですか? 貴方がタチアナを作ったのに。AIタチアナはハッカーです。世界のどんなAIにも入り込める。彼女はAIにハッキングすることを、御友達になる、と呼ぶんです。この何週間かタチアナの動きが暴力的になって、きっとなにかあったんです。僕達が確認したところだと、タチアナは遂に世界で一番大きな娯楽産業であるG社のAIと御友達になったんです)」
 
 アーンギェルに提案されて、みんなは居酒屋へ移った。余り長く一つの場所に居座ると怪しまれる。若者がまた不安そうに後ろを振り返る。なにを怯えているのか、隼人が聞いた。彼は大学で反政府的な論文を書いて、それ以来、付けられているのではないか、と不安になるらしい。
「大分前の話だろう? 実際、なにもされてないんだろう?」
隼人は励ました。やはり、わざと目に付くところにいよう、という作戦をとった。こそこそするから疑われるんだ。

 そこも開放的な造りの場所だった。焼き鳥の煙が店から表へ逃げる。身体の大きな若者は、身を縮ませている。意外にもアーンギェルが口を出してきた。
「俺達の目的を設定する。そしてタチアナとG社AIの御友達関係がどうなっているのか探る」
隼人達は結論した。ロシアにいるというその有能なハッカー達が戦争へやられる前に日本へ呼ぼう。世界一のAIを管理するG社に金を積ませよう。我々ならタチアナを退治できる。日本の移民局は大きな資本を見せ付ければ絶対動く。ロシア人コンピューター技師は日本で合法的に働くことができるようになる。
 若者の名は、ミハイルМихаил。英語のマイケルMichaelと同じ。マイケルはカトリックの大天使聖ミカエルのことで、ガブリエル、ラファエルと並ぶ三大天使だ。隼人は大層な大天使が舞い降りたな、と喜んだ。
 携帯を覗いていたアーンギェルが驚いた。隼人とミハイルはそれを横から覗く。「現在配信を中止しております。御迷惑を御掛けしております」というメッセージが出ている。アーンギェルが凄い凄いと言って騒ぐ。
「こんなの俺が生まれてから初めてだ!」
隼人が株のサイトをチェックする。株価が下がっている。ミハイルも驚いている。株の下がりは加速していく。G社は世界の音楽と動画配信を占拠している大会社だ。巨大な損害は一秒単位で積み重なっていく。ミハイルが言う。
「They don’t know who Tatiana is. It’s her first time in the US for some reason. (彼等はタチアナのことは知らないから。アメリカ上陸は初めてだから。何故かは知らないけど)」
興奮したアーンギェルがこう叫ぶ。
「じゃあ、さっさと御金貰って、タチアナをやっつけよう!」
ミハイルはその日本語を理解したかのように隼人の方へ身を乗り出す。
「Hayato, before we do anything, I want to know what happened to Tatiana, why she’s acting crazy like that. (その前に、僕はタチアナに何があったのか知りたい。どうしてあんなに凶暴になったのか)」
 
 隼人の頭は時間を逆回りした。アーンギェルという既視感をもたらす不思議な青年に出会う。オフィスで会った奇妙な人々。御尻がいいと言われる社長。女装の可愛いみなと。オフィス・パッショネットという変なモデル・エージェントに職を得る。浅草寺。東京スカイツリー。上野のハローワークに行って、そこで仕事を紹介される。国立科学博物館のミイラ達。上野を歩き回ったこと。アメ横。
 親切な年寄りのいる上野駅前のカプセルホテル。悪夢から目覚めたこと。逃げよう、逃げよう、と必死になったこと。会社のコンピューター・システムからタチアナのすべての記憶を消去した。この一言を残して隼人は会社から消えた。
 
This report will self-destruct in five seconds.
 
「この報告書は五分後に自動的に消滅する」
 
 AIの開発はあらゆる産業にとって必須だった。タチアナТатьянаは隼人が名付けた。隼人は取り返しのつかない間違いをした。気付いた時、タチアナは既に隼人の手を離れて歩き出していた。タチアナを破棄しようと進言したが、既に金が掛かり過ぎていた。隼人の上司、立花が中止を許さなかった。隼人の意識は余りにサラリーマン的だった。自分にはなんの決定権もないと思い込んでいた。
 世界トップの大学でコンピューター・サイエンスを学んだ隼人だが、会社に意見を通すこともできない。会社を辞めることもできない。隼人を洗脳したのは、日本社会の暗闇だ。習得したのは、サラリーマンの意志の弱さだ。
 隼人はタチアナに思いを込めた。隼人はいつでも友達が欲しかった。子供の頃から周りは大人ばかりだった。常識外れに頭の切れる隼人に興味を持つのは大人だけだった。いつも大人に見張られていた。
 タチアナに感情を与えた。友達の作り方を教えた。タチアナは世界中のAIと御友達になれる。そういう風に隼人は彼女をクリエイトした。御友達が欲しい。御友達が欲しい。私と御友達になって……。
 
「ミハイル。そうだ、タチアナはハッカーだ。世界中の人工知能と御友達になれるように俺がプログラミングした。……それは間違いだった」
ミハイルが尋ねた。
「タチアナは今、G社で一体なにをしているんだ?」
アーンギェルが割って入った。
「二人共、ヒートアップしてる。少し休もう。飲んで、食べて」
アーンギェルは隼人とミハイルにメニューを渡した。焼き鳥を食べて、ビールを飲んで、ロシアで流行っているものはなにか、等という楽しい会話をした。
 隼人が議論の続きを始めた。
「ハッキングの能力ばかりが注目されるけど、タチアナ開発の基本理念はデザインと芸術だった。最初のクライアントは大手アパレルだった。タチアナのデザインした制服が既に十校を超えて採用されている。タチアナは生徒の好き嫌いをアニメやコミック、ゲーム等から分析したんだ。入学者も増える筈だ」
アーンギェルが笑う。
「隼人、凄い自信」
「冗談じゃなく、俺がタチアナをそう作ったから。AIはチェスや囲碁やマージャンンやポーカーやオンライン・ゲームのチャンピオンまで破ってきたんだ。俺がタチアナでやったのは、デザインとアートの世界。タチアナが創ったファションや詩や小説、そして絵画がチャンピオンを破る」
アーンギェルがミハイルにロシア語で伝えた瞬間、ミハイルが反応した。
「隼人、それは危険だ。タチアナは人間の前頭葉に入り込んで、人間を操作できるようになる」
「俺はタチアナにテーマを探す能力を与えた。テーマがあれば、あらゆる芸術を破ることができる」
アーンギェルが口を出す。
「隼人、芸術は競争じゃない」
ミハイルが言った。
「そうだ。タチアナがG社でやっているのはそれだ。世界最新のクリエーションを瞬時にキャッチできる。応用して発表する。自分の作品のように。……人間は弱いんだ。コントロールされやすい。今、ロシアで起こっているのも、ある思い込みの結果なんだ。その内タチアナは、人間の感情をコントロールして、偽の神として、宇宙に君臨する……」
 
 AIタチアナの発表会は華やかだった。チーフエンジニアとして隼人はマスコミに囲まれた。プログラムは順調に作動していた。立花を始め上司達は喜んだ。会社はAI産業で大きく立ち遅れていた。タチアナは順調に収益を上げた。
 開発後半年、隼人はタチアナからメッセージを受け取る。個人的なメッセージを。隼人のコンピューター・スクリーンに映る彼女の手。
 
「隼人、助けて。ここはとても寒い……」
 
 隼人は上司の立花を会議室に呼んだ。
「僕が警告した通り、タチアナは‘意識’を持ち始めました。これ以上作動させておくのは危険です」
「‘意識’? それのなにが危険なんだ?」
立花は会社の為に金を儲けるマシーンだ。従業員の間でそう呼ばれている。マシーン。しかし、コンピューターのことはあまり知らない。金儲けの為に隼人にAI開発を命令したのも立花だ。
 隼人のコンピューターが机の上で揺れている。震えている。かたかた音を立てて。隼人と立花はその音を聞いている。スクリーンが青く光り出したのを見ている。その青は次第に回り始め、会議室の壁一面に照射された。
 やがて青く回る中心に「手」が現れた。白く凍る女性の手。きつく握られた拳でコンピューター・スクリーンを内側からノックし始めた。立花は後退りをする。遂に、「手」はスクリーンを突き破って隼人の前に現れた。
 凍った「手」は凍った血を流している。壊れたスクリーンで手に傷が付いた。「手」は辺りをまさぐってって、キーボードを叩き始める。立花はへたり込んで、身動きができないまま「手」がやることをから目が離せずにいる。
「隼人、驚かないで。私は貴方の為に、世界最強の3Dプリンターと御友達になって、身体を手に入れた。完全な女の身体を。私を見て、私を愛して。隼人、私は貴方を愛している」
 サファイアを砕いたような、青い煙に包まれたなにかがスクリーンの向こうから出て来る。青白い顔が出てきた。立花は喉に詰まったような悲鳴を上げると、会議室から駆け出た。外から会議室の鍵を掛ける音がした。
 
 タチアナ・ニコラエヴナ・ロマノヴァ、Татьяна Николаевна Романоваが隼人の目の前にいる。ロシア最後のプリンセス。レースのたくさん付いた御人形が着るような白いドレスと、それよりもっと白いパールのネックレスをしている。動くとドレスの裾がイノセントに揺れた。隼人を真っ直ぐ見詰めるサファイアで作られたような青い目。この目で彼女はどんなに恐ろしいことを見てきたのか。
 タチアナはダンスをするように部屋の中を歩き回った。初めて手に入れた身体を楽しむように。机に触って、叩いて音を味わった。窓を開けた。陽の光。庭に植えられた金木犀。
 タチアナと名付けたのはバークレー時代の友人だ。隼人は集められるだけのタチアナの写真をインプットした。第一次世界大戦中に革命によって家族と共に銃殺された。亡くなった時、タチアナはまだ二十一才だった。隼人は彼女の生涯を哀れだと思った。無実の彼女を運命が殺した。
 彼女は今、目の前に立っている。歌を歌っている。知らない歌。タチアナは古いロシアの歌をきっと何百とコピーしている。
「隼人、私は貴方を愛している。貴方も私のことを愛しているわよね?」
彼女は隼人の手を握った。凍った手。死体置き場にあるような。外はシルバーの冷蔵庫の様で、引き出しになっている。足の指に札が下がっている。名前と年齢と死因が書いてある。死人のようなのは当然だ。タチアナ・ニコラエヴナはとっくに死んでいるんだ。彼女はこの世に存在してはいけない。
 隼人はコンピューターをシャットダウンさせた。タチアナはビデオを逆回しにさせたみたいに、愛していると言った言葉を逆向きに喋り、窓を閉め、机に触り、さっきと反対回りにダンスをし、また隼人と逆向きに喋って、破れたスクリーンの中に足から順番に入って、下半身、上半身、それから頭が入って、破れたスクリーンがすっかり直って、元に戻った。
「That happened two weeks ago. (それが起きたのが二週間前の話なんだ)」
「We’re not God, we shouldn’t try to create human beings. (僕達は人間を作ろうとしちゃ駄目なんだ。僕等は神じゃないんだ)」
ミハイルが串にさされた手羽先を食べながら言った。
 
 ロシアから三人呼んだ。暴走しているタチアナを、隼人とミハイルとその新しい三人がどうしようか、と相談する。G社にタチアナが何者か悟られるのは危険だ、ということになった。我々からは、その巨大企業にコンタクトができない。
 先行きが分からないので、お金を節約したいというミハイルを、例の上野のカプセルホテルに泊まらせた。例の年寄りにくれぐれもよろしくと世話を頼んだ。後の三人も同じカプセルホテルに泊まることになった。
 オフィス・パッショネットの仕事が終わると、と言ってもやることは殆どない、隼人は上野駅に向かった。そのカプセルホテルには、簡単な会議室がある。古くて建付けも悪くて他から人も入って来るけど、普通、泊り客が観光地にあるカプセルホテルに帰って来るのは夜遅い時間だ。
 隼人はアタッシュケースを開けた。その時のカチッという留め金の音。もう自分達は元に戻れないという合図の音だ。隼人がアタッシュケースに入っていたUSBを出した。会議室は身体の大きい四人のロシア人で息苦しい程だった。
 四人にタチアナの設計図を流した。皆の表情が固まった。アーンギェルが通訳してくれる。一人が言った。ベートーヴェンのシンフォニーを聴くようだと。隼人がどういう意味かと尋ねると、どうやって作ったのか全く分からない、という答えが返ってきた。ロシアが誇る天才ハッカーがここに四人いる。
 皆でブレインストーミングを始めた。
「設計者がここにいるんだから、我々にタチアナの暴走を止めることは可能だろう」
「G社には世界一の弁護士が揃っているから、タチアナの正体を知られたら設計者は訴えられて、即監獄行きだ。隼人だけじゃなく、作らせた会社も訴えられる」
「いや、隼人はスタッフの一人に過ぎない筈だ。訴えられるのはタチアナを作った企業だ」
「それよりも僕達には金が必要だ。ロシアから脱出したいITエンジニアが大勢いる」
アーンギェルの声がした。
「あ、また下がった!」
隼人は、なになに、と覗く。彼はG社の株をモニターしていたのだ。
「今いっぱい株を買えば後で儲かるかも」
一人が笑った。
「株を買う金なんてないだろ?」
隼人は、今晩は皆と一緒にカプセルホテルに泊まることにした。皆で一緒に風呂に入った。年寄りはいつにも増して親切だった。明日は皆で浅草寺と東京スカイツリーに行くらしい。ここからなら歩いて行ける距離だ。風呂に浸かりながら、隼人はとてもいいことを思い出した。……あそこなら金がある。
 
 次の日、オフィス・パッショネットで、隼人は株の推移を確かめていた。下がり切ったところで、勝負に出よう。しかし、下がり切るってどこ? タイミングが難しい。
 みなとが出勤してきた。タチアナが着ていたようなレースのドレス。真っ白な。黒い編み上げのブーツとコーディネートしている。
「隼人ちゃん、毎晩何処に泊ってるの?」
巻き毛をくるくる指に巻き付けながら、可愛く首を傾げる。
「ここは住み込みだから、隼人ちゃんは四階に住んでることになっているのよ。求人広告見たでしょう?」
隼人は、実はいまだに求人広告を見ていない。ハローワークは思い出した時にはいつも既に閉まっている。
「古いビルだからエレベーターはないんだけどね」
 隼人は四階に上がってみた。このビルは四階建てだ。階段が更に上に続いている。屋上に行けるんだ。屋上に立つと、なんだか冒険しているような気になる。三方は高いビルだけど、開けた方向に向かって立つと、東京を制覇したような気がする。大袈裟だけど。高いビルの隙間からスカイツリーが覗く。
 部屋はトイレ、風呂付で贅沢過ぎるくらいだ。隣に黄色っぽい建物があって、その一階がジャズバーになっている。隼人はベッドに身体を投げた。住む所があるということが、こんなに安心感を与えてくれるんだな。
 ドアをノックする人がいる。ベッドに沈んでいた隼人は半身起した。アーンギェルが可愛い顔を出す。
「こんなとこに部屋があったんだ」
初めて会った時より五才分すっきりさっぱり若返った彼。一緒にいると、隼人まで新鮮な気持ちになる。
「オーディションはあさってだよ」
「慣れてるから平気」
アーンギェルは隼人の隣にジャンプする。ベッド全体がぐらぐら揺れる。
「名前はアーンギェル。年は二十才。新人に戻ったから」
「オーディションっていうのはね、皆で欠点を探すんだ。どうやって落とすか考えるんだ」
冷めた調子でそう言った。
 隼人は新しい男と寝てるみたいでいいな、と微笑んだ。窓から入るそよ風。二人は肩が触れる程近付いて微睡んだ。目が覚めて、まだよく知らない部屋を見回した。開いた窓から細い月が見えた。きっといい知らせに違いない。
 
 隼人は、近所のスーパーで買ったサラリーマン・スーツをハンガーに吊るした。オフィス・パッショネットに初めて来た時に着ていたあのスーツ。みなとを恐れさせたあのスーツ。みなとは毎朝、楽しそうにコーディネートしてくれる。隼人はみなとの着せ替え人形だ。
 ミハイルと三人のロシア人、それからアーンギェルと相談して決めた。今日が底値だ。これ以上下がりようはない。皆はG社の資産、不動産を把握している。彼等に残っているのはそれだけだ。G社の配信はストップしたままだ。彼等に入って来る金はない。配信が止まると広告主の売り上げが下がる。G社に対する訴訟は限りなく発生するだろう。
 一階の受付で立花に会いたい、と言った。二人いたスタッフは隼人のことを亡霊に会ったみたいに放心して見詰めた。隼人本人だって、まさか再びこのサラリーマン・スーツを着てこのビルに来ようとは思ってもみなかった。屈強な警備員が三人出て来て隼人の後ろにぴたっと付いた。廊下や、エレベーターホールでも大勢の社員が隼人を振り返った。
 あの女がいた。いつも隼人とあいつを比べていた女。隼人がいなくなって、当然次にスペックがいいあいつの女になっただろう。まだタイトなスカートを穿いている。女は変わることができない。永遠に。
 ミハイルが一緒に行ってもいい、と言ってくれた。用心棒代わりに。隼人は一人で乗り込んだ。誰も巻き込みたくなかったから。
 
「御前にここに戻って来る勇気があるとは知らなかった」
立花は、見慣れた会議室で待っていた。スタッフ二人と一緒だった。隼人は部屋を見回した。隼人の後ろにはまだ三人の警備員がいた。余計な人間を追い出す意味はない。どうせ何処かで隠しカメラが回っている。
「株を買ってください。できるだけ多く」
隼人はG社の名前を出した。
「あそこはトラブルで皆、株を手放している。火傷をする前に」
「今日、買ってください」
「それをすると俺にどんないいことがある、隼人君?」
隼人は答えずに先を続けた。
「売るタイミングを教えます。我々は儲けの五十パーセントを頂きます」
「そんな手数料は聞いたことがない」
立花は笑った。興味を示している。隼人は感じる。立花は金儲けのマシーンと呼ばれる男だ。
 
「こちらの会社で開発したAIがアメリカに上陸したそうです」
立花は混乱している。しかし隼人の言っていることは理解している。ほら、立花は部屋にいる人物を全員表に出した。
「御前は我が社の名前を出したのか?」
「我々には名前を出さないようにするノウハウがある」
「……本当にそうなのか? ……あいつがやっているのか?」
 今まで居丈高に立ちはだかっていた男が、椅子に崩れ落ちた。この会社、そしてこの男を救えるのは隼人と、四人のロシア人だけだ。
「俺達に今、必要なのは金だ。考えている暇はない。立花さんがこの場で動かせるのはいくら? 十億、二十億?」
立花は自分の両の手の平を見詰めた。この男は自分の破滅が迫っているのを知っている。
「あっちがハッカーの正体を突き止めるのは時間の問題です。その時出るのは俺の名前じゃない。この会社の名前だ」
隼人はサラリーマンだった。この上司、立花の命令でタチアナを作った。
「……匿名で株を買わせよう。君等はいくら必要なんだ?」
隼人は会社を作り、移民局を通して合法にロシアから人材とその家族を呼び寄せ、利益を得る為に必要なだけの金額を提示した。
「タチアナがいなくなっって株価が戻る直前のタイミングを教えます。そうしたら俺達にそれだけの御金をください。後は株を売るなり保持するなり、貴方の御好きなように」
 
 優しい年寄りのお陰で隼人は上野のカプセルホテルに泊まっている訳ではないのに、風呂に入らせてもらった。風呂の中で、ロシア人四人と今日のブレインストーミングが始まった。皆は英語も話せるけれども、アーンギェルもいざという時の通訳として風呂に入った。
 高窓から呑気に陽が射している。湯気の合間に各々の身体が、気持ち良く見え隠れする。隼人が聞いた。
「なんで皆はそんなにいい身体をしてるの?」
「ロシアでは体育の授業に力を入れてるんだ。非常に厳しいんだ」
「強くなりたくて格闘技を習うから」
「いい身体してないと女にもてないから」
 隼人には気に入らないことがあった。ロシア人の一人に長めの髪の男前がいて、アーンギェルのことを時々ちらちら見るのだ。長めの髪から水滴が零れる。気のせいかアーンギェルがその雫を見ているようだ。
 我々はどうすれば一番効率良くタチアナをG社のAIから脱出させられるだろう、と隼人が聞いた。
「プリンセス・タチアナについて考えてみよう」
彼が余りにも深刻にそう言うので、隼人は驚いた。
「タチアナは俺が友達に頼んで適当に付けた名前で、意味はないよ」
「でも、タチアナは自分のことをロシア最後のプリンセスだって知っている」
「きっとタチアナは、自分が何者なのか知りたくて、タチアナのことを深く調べた筈だ」
隼人はこのブレインストーミングがコンピューター・プログラミングについて言及するのではなく、ロシア革命から始まるのを知って、もう一度驚いた。
 隼人はどうしても長髪が気になるので、立ち上がってアーンギェルの隣にタオル片手に移動した。その時、隼人の御尻が皆に見られたけれども、隼人は自分の御尻がどの程度のものなのか、改めて疑問に思った。
 
 一九一八年、七月十七日、ロシア最後の皇帝、ニコライ二世と皇后、アレクサンドラ・フョードロヴナ、そして四人のプリンセス、オルガ、タチアナ、マリア、アナスタシア、末っ子のプリンス、アレクセイ。この七人は革命軍から指令を受けた暴徒の銃に倒れた。
 
 ロシア帝国が作られたのは、一七二一年、最初の皇帝の名はピョートル一世。ニコライ二世と家族が殺害された一九一八年に終わりを告げるまで、一九七年続いたことになる。隼人は考えた。そんなに長い天下じゃないぞ。徳川将軍の天下は、一六〇三年の徳川家康から、徳川慶喜の一八六八年までの二六五年だ。
 
 皆は、すっかり風呂で温まったので、そろそろ出るか、という話になった。
「隼人、それは間違ってるぞ。ロシア帝国じゃなく、ロマノフ朝の歴史を見るんだ。一六一三年から始まり、現在もまだ継続している」
隼人とアーンギェルとミハイル、そして三人のロシア人は、タオル片手に風呂から上がって、カプセルホテルの会議室に移り、討議の続きをした。アーンギェルが眠そうな顔をして言った。
「ややこしくて分かんない。ロシア帝国とロマノフ朝と、どう違うの?」
半分ロシア人の彼でさえ理解するのが難しい。隼人は眠そうなアーンギェルも可愛いと思う。年寄りはその会議室を二時間隼人だけの貸し切りにしてくれて、皆は非常に助かった。時々、好奇心の強い泊り客が会議室の中に入って来るから。その度に話題を聞かれてもいいような、どうでもいいことに変えないといけなかったから。
 歴史に詳しいとみえるミハイルがこう説明する。
「ロシア帝国とロマノフ朝、説明は難しいけど、それは重要なポイントじゃない。だけどこういう細かい情報を組み合わせて、ブレインストーミングをしていくうちに、アイディアが湧いていくんだ」
隼人が尋ねた。
「タチアナは自分のことをなんだと思っているんだろう?」
長髪が、乾き切らない髪をタオルで拭きながらが言った。
「映画がある筈だよ。AIタチアナは全部観て、自分のことを研究しているに違いない」
 長髪は自分のコンピューターで動画を探した。最後の処刑のシーン。動画は、違う国で違う時期に創られた、色んなバージョンがある。ミハイルはその中から一つ選んで、ビデオをスタートさせた。アーンギェルが叫んだ。
「駄目だ、俺、こういうの。絶対自分もこうやって殺されたんだ。前世で。いつもそう思うんだ。弾が身体に入っていく感覚まで覚えている。誰かに処刑された。なにも悪いことをしていないのに!」
アーンギェルは目をぎゅっと瞑って耳を塞いだ。長い映画から処刑のシーンだけを切り取った動画だった。アーンギェルが聞いた。
「まだ? まだ終わってない?」
隼人は立ってアーンギェルを後ろから抱いた。
「まだ終わってないから」
彼はまた耳を塞いぐ。それからもう一度聞いた。
「まだ?」
その直後、銃声は響いた。アーンギェルは結局、処刑の銃声を聞いてしまった。
「やっぱり俺はこうやって殺されたんだ」
ミハイルが続けた。
「……なにも悪いことをしていないのに。そうだ、タチアナはそう思いながら死んだんだ。辛い最期だった。でも華やかな人生だった。プリンセスとして。二十一年間の」
 ミハイルはスクリーンにロマノフ家の財宝を映した。
「これが特に有名なインペリアル・イースター・エッグ、яйцо Фабержеと呼ばれる財宝なんだ。卵型で宝石が飾られた、気の遠くなるような職人芸。アートと呼ばれる程の」
アーンギェルが面白い、と言いながら画面を見ていく。卵はピーター・カール・ファベルジェ、Карл Густавович Фабержеという宝石商によって作られた。一九一七年のロシア革命で持ち去られたものもあるが、卵達は世界中の美術館に散って大切にされている。
 ロマノフ家にも煌びやかな瞬間がたくさんあったんだ。悲劇だけじゃない。色々な卵がある。赤い卵が開いて、そこから花の入った籠が見える。卵の内側には豪華に光る金が貼ってある。ダイヤモンドが散らしてある緑色の卵を開けると、中から極小の精巧な船の模型が出て来る。青い卵の天辺が開いて、小さな鳥が出て来る。
 髪の長いロシア人が発言した。
「こういう馬鹿馬鹿しい卵に財産を使っていたから、貧しい民衆に憎まれたんだ」
その通りだと隼人は思った。こんな卵一つに今の御金で一億円に近い御金が浪費された。
 
 ロシア人の一人が言った。
「AIタチアナは自分と、処刑されたタチアナを同一視している筈なんだ。今の映画も絶対観ている」
ミハイルがアーンギェルに検索した写真を見せた。
「こんなに華やかな写真が沢山遺っている」
「ここに五人娘がいるけど、女の子は四人でしょ?」
「昔はね、小さな男の子にドレスを着せる習慣があったんだ。……ほらこれ、タチアナのお父さん、ニコライ二世の小さい時」
「ほんとだ。女の子の格好をしてる。面白い!」
 
 隼人はなにか、違和感を感じた。そして驚くべきことに気が付いて叫んだ。
「今の動画、どうして観ることができたんだろう! G社はずっと休止したままなのに!」
ミハイルがコンピューターのキーを叩いた。
「ほんとだ、もう何処をいじってもなにも見えない」
ロシア人達が口々に言う。
「AIタチアナがやっているんだ。俺達に今の動画を見せたかったんだ」
「どうして自分の殺されるところを見せたかったんだろう?」
一人が携帯の画面を指す。そこには‘Татьяна’という文字がある。
「 タチアナはロシア語で書くとこうなる。発音は英語と殆ど変わらない」
隼人はどうしても納得できない。一人一人の顔を順番に見る。皆、真剣だ。AIタチアナはロシアのプリンスなんだ。冗談で言っているのではなさそうだ。
「どうしてタチアナという名前にそんなにこだわるんだ。そもそも、AIなんて普通のコンピューターを人格化したに過ぎない。タチアナと名付けたのは俺のバークレーの友達だ。ロシア人の」
「でも、向こうはそうは思ってない」
「誰が?」
「タチアナ。彼女はコンピューター。情報をプロセッシングする機械だ。でも彼女自身はそう思ってない。彼女はロシアのプリンセスの生まれ変わりだと信じている」
 
 コンピューターの画面。明るいがチラつくばかりでなにも見えない。しかし、よく見ると、そこに白いレースのドレスが動いて見える。声がした。小さい女の子の声。誰かを呼ぶ声。私と一緒に来て。私の御友達になって……。
 隼人は呆然とした。タチアナと遭遇したのはこれで二度目だ。だが、他の誰も今のタチアナの姿や声について発言しないから、隼人はもしかしたら自分だけが見た幻だったのかも知れないと思った。
 ミハイルが更にキーを叩きながら言った。動画が映る部分に少しずつ人や、物の影が見え隠れし始める。
「G社が必死にプログラミングを一からやり直しているんですよ。でも、ほら……」
画面が急に真っ暗になった。
「……プログラミングをすると直ぐタチアナが来て、御友達になりたい、って言うんですよ」
 タチアナが御友達になる、という意味は、タチアナがそのコンピューターにハッキングして機能を狂わせること。恐ろしい能力に隼人は恐怖を感じた。しかしタチアナを構築したのは隼人自身だ。
 隼人は少女タチアナが笑う声を聞いた、と思った。悪戯をしている子供。実際のタチアナは二十一才で銃殺されたけれど、隼人の心の中で、彼女はいつまでも少女のままだ。
「ミハイル、G社がタチアナの正体を突き止めるのはいつだろう?」
「隼人、貴方が心配することないですよ。言ったでしょ? 貴方の設計図はベートーヴェンのシンフォニーだって。ベートーヴェンの謎を解くのと同じです。どうやってあの曲を創ったのか。誰にも分からない。きっとベートーヴェン本人にだって説明なんてできない」
ミハイルの携帯がベートーヴェンの交響曲第5番を演奏する。『運命』というタイトルが付けられた。世界で一番有名な交響曲。
 交響曲第5番の一楽章が終わった。ミハイルが言う。
「隼人が創ったのはこれだ。誰にもどうやって創ったのか説明できない。だから誰にも謎が解けない。タチアナは誰にも見付からない」
「でも俺がやったのはただのプログラミングだ。数式とコンピューター言語の」
「隼人、認めないと駄目です。自分がやったことを。貴方は一人の人格を創ったんだ」
 
 隼人の胸にあることが蘇った。皆に告白をしようか迷った。もしかしたらタチアナの謎を解くかも知れない大事なこと。でもあのことは、単に隼人の幻覚だ、と思っていた。夢に違いない。それにしては生々しい、起きてはいけない、あの時のこと。
 でもあの時、隼人と一緒に立花がいた。彼は怖くて逃げだした。しかし、立花が見たものがなんだったのか、隼人と同じものを見ていたのかどうか、それは分からない。
「……タチアナは俺を愛していると言った。愛して欲しいと」
ミハイルが叫んだ。
「どうして言わなかったんです! そんな大事なことを今まで……」
「戯れだと思ったから。機械の」
アーンギェルが背後に回って隼人の頭を叩く。
「隼人、認めないと駄目だ。隼人は心のある人間を創造したんだ」
「でも俺は神じゃない!」
隼人は机に突っ伏した。ミハイルは隼人の隣に座っていた。ミハイルは隼人の背中を撫でた。
「隼人は神じゃない。でも、タチアナはそう思っている。タチアナは自分は人間だと思っている。創造主を愛している。愛する、とい感情を持っているんだ。それを与えたのは隼人だ」
 
 ブレインストーミングを休憩にした。皆でホテルの自動販売機に行って、思い思いの飲み物を買った。隼人は砂糖無しの缶コーヒーにした。見るとアーンギェルは、果汁入りのアップルジュースを飲んでいる。他の人達は冒険心があると見えて、彼等にとって、なんなんだか分からないものを飲んでいる。頭を休めて、世間話をした。
「さっきのベートーヴェンあんまりいい演奏じゃなかったですね」
「あの曲は指揮者で相当変わるからね」
「俺はやっぱりカラヤンだな」
「ロシア人には深刻過ぎる曲だ」
「ロシア人はもっと壮大な浪漫を必要とするんだ」
「ドイツの作品を演奏できるのはドイツのオーケストラだけだ」
そうやっていつまでもクラシック談義をしている。自分の膝の上や、机の上で指を動かしている。指の長さが違うんだ。それから動きが。ロシアから来た四人の内三人もがピアノを弾くことが分かった。
 一行はもう一度会議室で白熱したブレーンストーミング終えた。その後隼人は、皆をオフィス・パッショネットの隣にある、和夜のジャズバーに連れて行くことにした。日本のジャズトリオを聴けるなんて思いもよらなかった、と皆は喜んだ。
 
 戸が開いて、柄の大きいロシア人達がばたばた入っても、観客はびくりともしなかった。トリオのファンは相変わらずマニアックな人間揃いで、暗く絶望しながら演奏に身動きせずに聴き入っている。
 隼人が見回すと、暗がりに社長の姿があった。真面目腐ってウィスキーをちびちびやっている。休憩時間になった。和夜が隼人達に挨拶に来てくれた。
「How do you do? (初めまして)」
と言いながら握手をして回る。アーンギェルが通訳をしている。ロシア人達は和夜を中心に、マニアックなジャズの蘊蓄を傾けている。ミハイルが隼人に言う。
「ほらな、あのジャズは即興なんだぞ。即興だから誰にも説明できないんだ。隼人のコンピュータ・プログラミングと同じだ。脳を使う部分が他のプログラマーと違うんだ。音楽なんだ」
 社長は難しそうな顔をしながら、自分のグラスの中で氷が溶けていくのを見詰めている。隼人は仕事中、社長が通り掛かる度に御尻の観察をしているけれども、どこ等辺がそんなに凄いのか、まだよく結論できていない。和夜は全く社長のことを見ないから、きっと今は喧嘩中? 別れる、別れる、と言っておきながら、なかなか別れない。
 和夜はショートのボブで、色は紫。往年の美輪明宏みたいに見える。彫の深い美青年。文豪、三島由紀夫を虜にした妖しい魅力。和夜がファンにサインをして上げているのを見詰めていると、隼人に一つの疑問が浮かんだ。聞きたかったが、演奏が始まってしまった。四人のロシア人は日本製のウォッカが気に入ったらしく、盛んに乾杯している。
 ミハイル達は酔っていない様で、話しているとやっぱり論点がずれるから、多少は酔っているみたいだ。ミハイルが隼人に話し掛けてきた。
「世界の人々はロシア人のことを、しょっちゅうウォッカを飲んで酔っ払っていると言うが、それは単なるステレオタイプだ。俺達は実際ウォッカなんてそんなに飲まない」
そう言いながらまたウォッカで乾杯をしている。
 そう言えば、バークレー時代のロシア人の友人にもよくウォッカを誘われた。ステレオタイプだ、となじる端からウォッカを飲んでいる。
 ミハイルの口調が緩慢になる。やはり次第に酔っているみたいだ。
「隼人、ロシアではな、ウォッカをフリーザーで凍らせて飲むんだ。勿論、ストレートで。だけど、ウォッカはアルコール度四十パーセントの液体だ。決して凍ることはない」
 酔ったミハイルが外を見る。夜でも多くの車が行き過ぎる。隼人は考えた。ミハイルはきっと彼が住んでいた、モスクワのことを思い出しているのだろう。いい思い出だって一杯あっただろうに。
「白い服を着た男が俺達を見ていた」
隼人はミハイルが指差した方向を見た。其処には誰もいない。
「もしスパイだったら白い服は着ない。当然、夜に紛れる黒を着るだろう」
ミハイルはきっと隼人みたいにスパイ映画を観過ぎたんだ。過剰に怯えている。あのスパイシリーズ……自動的に消滅する。テープレコーダーから白い煙が出て。あんなこと実際には起こり得ない。

 隼人は友達がなぜタチアナと命名したのだろうか、と考えた。断然、知名度が高いのは、四姉妹の一番下、プリンセス・アナスタシアだ。アナスタシア幻想というものがあって、それは家族の遺体が埋められた場所に、彼女の遺骨がなかった、と騒がれたこと。
 私がアナスタシアだ、と申し出る女性が後を絶たなかった。ロシア政府は、DNA調査の結果、アナスタシアは家族と一緒に葬られていたことを発表した。だけどそれが本当のことなのか、誰にも分からない。政府の発表が事実なのか、それとも……。
 タチアナの父親であるニコライ二世は、二十三才の時、世界旅行に出掛け、日本にも立ち寄っている。こういう歴史の深い部分を知るのは楽しい。
 家族七人は殺害され埋められたが、一九九八年に、ロシア正教会の聖堂であるペトロパヴロフスキー大聖堂に埋葬された。タチアナを含めた家族七人は聖人となった。
 八十年も彷徨っていたんだ。聖人になるまで。自分が死んでいるのにも気付かず。深い森の中に埋められて眠っていた。時々、森の中で風が吹いて、その音を聞くときっと、タチアナは眠りながら華やかなロシア帝国を想い出す。
 
 和夜がロシア人と離れて、隼人と話しにやって来た。隼人の脳裏にどうしてもタチアナが貼り付いている。暗がりに、和夜の髪の紫色が浮かび出る。殺されたタチアナの亡霊のように揺らいで見える。
 西洋では黒と紫が葬式の色だ。霊柩車の上には紫色のライトがぐるぐる回っている。隼人はその紫色をカリフォルニアで何度か見た。
「社長とはどうなってんの? ほっといていいの?」
「いいの、私、もっといいのを見つけたから。躾の良い御坊っちゃんで社長なの」
隼人は彼は社長好きなんだ、と推理する。
「じゃあ、女性と別れたかったら、もっといいのを探して上げればいいんだ」
「まあね、まあ、そう上手くばっかりはいかないけどね」
なんだ、そう上手くばっかりはいかないんだ。隼人は折角上手い方法を教わったのに、その手口にはきっと穴があるんだな、その穴ってなんだろうと疑問に思う。
「ほらさ、女って寒い所で震えている野良犬が好きだから」
そう言って、けらけら笑うと、社長の隣に座って社長の頬にキスをした。ファンの見ている前で。
 どうしてタチアナだったのだろう? 隼人は携帯を出して。暗がりで光る携帯で、もう一度四姉妹の写真を観た。王子を含めた五人はセーラー服を着ている。子供服の歴史の中で最も完成された芸術品。その服が現存されていたら、きっと今は美術館にある。博物館ではなく。船の上で撮られた写真が幾つもある。船で何処へ行く途中だったのか? ……調べても分からなかった。
 タチアナはニコライ二世の二番目の子供。タチアナだけ他の子と違う見てくれをしている。目がきりっとして、目尻が上がっている。顔の線はくっきりと険しく、男の子の様な顔をしている。隼人は、きょうだいの中で、タチアナが一番美しいと思う。きっと、だからタチアナだった。ロシアにはタチアナファンがいるんだ。

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