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平野啓一郎氏『ある男』~読書感想文~

人間存在と過去・現在・未来の時間軸から考える『存在と時間について』『存在とは何か?』『存在と無』、そんな哲学的なことを考えてしまう1冊だった。彼の小説にしては比較的読みやすかったが、その分自分への問いかけが大きくなり、自分の内側に深く潜る結果になる本でもあった。


私が思いいだくものは全て存在するものとして思いいだく、この前提で読書感想分を書いてみたい。なので、人間の存在自体の意義や真理、本質的な価値があるのかないのか、その分からないものに関しては、この1冊を私が読んだことによって、どう感じたのか?どう知覚したのか?私の体感だけを頼りに本の中の言葉で表現したいきたい。

存在と時間を考えたとき、人は自分自身の知覚と只の存在自体を関連付けてしまうため、存在への不安を抱くことになる。

☆☆☆
私が飼い猫の名前を呼ぶ。呼ばれた飼い猫は私の方を見る。私は飼い猫は耳が聞こえていると知覚する。
本当に聞こえてるのか?
私が名前を呼んだから、飼い猫は私の方を見たのではなく、たまたま私を見ただけなのかもしれない。けれど、私はその一連の行動から、『飼い猫は耳が聞こえている』と知覚する。飼い猫が耳が聞こえているかどうかなんて分からないではないか?!こんな風に人はそれぞれの解釈を持つ。生に関してもその個々の知覚が関与する。
☆☆☆

悩んだり、考えたり、感じたり、傷ついたり、見たり、愛したり、これらは全て自分の精神という限界内にだけ現れた知覚することにほかならない。
想像を天や宇宙まで思いめぐらせてみたところで、自分の精神から外へ一歩も飛び出していない。


私は常々今現在を感じるとき、過去も未来もなく現在に吸収されていると感じてしまう。私は『今ここ』に生きているだけであって、その生きている事の原因は絶えず変化していると考えている。

1日の終わり湯船につかっている瞬間、私の生きている原因は『入浴で自分を癒す』、読書をしている瞬間の生きている原因は『本を読み、想像をめぐらす』、この読書感想文を書いている瞬間、私の生きている原因は『自分の精神世界を旅する』、生きていることの原因はいつも同じではないのだ。

私にとって生きている事への原因と、生きている事自体の定義は異なっている。

生きている事自体(存在自体)、と、自身の知覚に関連付けた『存在とは何か?(生きている事)』この2つは全く別のものだと捉えている。

人間の存在に関して、理解のできる真理は分からないが、私が知覚する存在とは、変化し続けていくものなのだ。

『愛した人の過去が、赤の他人のものだと分かったとして、2人の間の愛は?』城戸が美涼に問いかけたとき彼女はこう答えた。
『愛しなおす。一回愛したら終わりではない、長い時間の間に何度も愛しなおす。』愛こそ変化し続けても同じ一つの愛なのかもしれない。
変化するからこそ持続ができる。

生もそれと同じだと考えた。
『一瞬ごとに赤の他人としてこの人生を誰かから譲り受けたかのように新しく生きていけるとしたら?』
本の中のこの問いかけに、自身の知覚と存在を結びつけたとき、私は自分とは違う他人としてのこの人生を譲りうけたように生きなおし、新しく生きていきたいと思った。
生自体も変化し続けても同じ一つの生であって、変化していくからこそ自身の生を持続することができるのだろう。

なぜなら、人は今現在のみに生きているのであって、その今現在の生きていることの原因は刻刻と変わり続けているからだ。そして、その瞬間を知覚してなければ、生というものは手中からこぼれ落ちてしまう程に脆いものだと思うからだ。


生きている事自体の真理は分からない。もしかしたら自分をこの世界につなぎとめているものは『無』かもしれない。しかし、その『無』の中に、各々の知覚による想像の宇宙が在る。宇宙の一部である我々人間は、自分の中に小宇宙を想像しながら日々変化し、別の人生を生きなおしている。自分の生はあらゆる世界に存在していると考えたら、小宇宙も広がるが、その広がりも又自分の知覚のみによって知られる。

本を読み終わってから数日間、自分の精神世界の余韻に浸っていた。
美涼の一言、『真の悲観主義者は明るい!』
今私が明るく言えることが一つある。


人間の存在には本質的な価値はないのかもしれないが、私は何度でも自分自身を愛し直し、この人生を一瞬毎に新しく生きなおしていく感覚を忘れないでいたい。闇の中の一筋の光を求め彷徨うように、こぼれ落ちそうな自身の生を最後までしっかりと握り締めていたい。


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