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生きる実感とは、無なのかもしれない

「生きる実感とは」と聞かれたらなんて答えるかな。「生きてる」実感ではなく、「生きる」。

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一番わかりやすいのは、歓びの瞬間、言い換えれば、うれしい瞬間。そのときの私は、自分が生きる価値を見出すことができたとき、と言い換えることができると思う。ほとんどが、仕事や、プロジェクトや、他者との関係の中で得られるもの。

その感覚がほしくて、ないと生きていけなくて、今まで走ってきた。だけど、最近なんだかもういい。もう夢とか社会とか未来とか一旦置いて、今の自分が一番幸せな状態にしたい。

必死に生きる価値を得ようと感じようとするのではなく、ただ淡々と生きたい。だけど、もしそうなったら、私の夢を捨てるような感覚にもなるから、なんだかつらい。

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山田ズーニーさんの「理解という名の愛がほしい」には、『若い人』という言葉が多くでてくる。特に生きる実感に関するところでは。

若い人に伝えなくてはならないのは、体中が熱く、気持ちが高揚する「歓びの瞬間」のことではなく。
自分の無意味感から逃れつつ、空気圧にじっと耐えて、昨日と同じ今日を、また、同じ凡庸な朝を生きる覚悟、それをうんざりしても、毎日繰り返し続けることこそが、「生きる実感」である。
若い人が探し求める方の、「生きる実感」は、歌でいうところの「サビ」の部分ではないだろうか。
でも、サビは、サビの部分だけつかもうとして、つかめたら、実感はうすい。もはやサビではなくなる。


ここもすき。

何もしていない期間がいちばん鮮やかだ。

無意味感、無力感、無。ずっと私が戦ってるもの。でも、それこそが「生きる実感」なのかもしれない。

それを感じたとき、私は立ち上がって走り出す。それで出会えた人、出会えた感情、出会えたことば。たくさんあった。うれしいことも悲しいことも。私の肥料になって今がある。私は、今を全力で肯定して生きたいだけ。過去の全部を好きになって、頑張ってきた私を好きになるから。

あと、大切にしたいこと。自分の毒を大切にすること。表現には毒が必要だから。

ちょっとでも、あなたの心にひっかかったら。