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無意識に人に話を合わせてしまう心理について

こんな記事を見つけた


思春期の頃、好きな子の話に合わせたことは
大多数、経験があるのではないだろうか?


これまで全然興味なかったアーティスト
スポーツ、趣味。色々。


空気を読むみたいなことでも
他に表現ができるかもしれないが
決してこれが全面的に悪いと言ってるわけではなく
この記事では人に話を合わせることが


・人に喜んでもらいたい
という利他の気持ちからくることと

・いい人だと思われたい
という私欲の場合があると言うこと


について書かれている。

つまり
相手に嫌われることへの恐れや認められる必要性が
潜在的な欲求としてあるため
このような言動で表に出ることもあるとのこと。


そっちだとちょっと心配よね。
って言うのについて言及してる記事。



多くは幼少期、養育される立場の人から
嫌われることや認められなかったことで
自分の存在価値や意義の危険を感じた人が
陥りやすいらしい。


要するに

自分が思ったように可愛がってもらえなかった。
ってことなんだろう。



無条件ではなく取引。
100点取ったらご褒美
いいことしたら褒めてもらえる
相手の欲求に応えたら
自分の欲求にも応えてもらえる。



そんな心の癖とも言えることが
ずっと無意識の中にあって
「相手に合わせて喜ばせたら受け入れてもらえる。」
こういう言動を大人になっても繰り返しているのだと思う。



とここまで書いたが
実は私もそうだった。



誰かに必要とされたいと
役に立ちたい、生きている意味
存在価値を見出したくて
共依存にハマりDVの被害に若い頃は陥っていた。



今はすっかり抜け出したが
振り返って思うのは
誰からも自分の欲しいものは与えられないと言うことだ。



誰も認めてくれないし
誰も存在価値をくれない。



自惚れるということとはまた
違うけれど
自分が自分を満たすと言うことをしなければならない。


とはいえ、親や先生といった
育んでくれる人からの愛情は絶対的に必要だし
とはいえ、与えられてないのか?といえばそれも違う。


与えられてはいるのだけど
どうもその時に自分が欲しかった形とは
だいぶ違うことが多く
感覚として、受け取れていないのだ。



そう言う自分の欲しい形で愛を与えてくれなかった親を
「毒親」なんて言ったりもする。
もちろんとんでもない毒親もいるけど
突き詰めるとその人なりの可愛がり方をしているけど
どうもうまくいかなかった。ってことなのかな?と
大人の私は解釈している。


こういった心の癖で悩んでいる人は
自分が自分の欲しかった愛の形を手にできなかったことから
本当は大切にされていたのに
本当は大事にされていたのに
そう思えなかった。のだろう。



もちろんそうじゃない人もいるけどね。



私は尊重されたかったし
話を聞いて欲しかった。


私は、自我がずいぶん小さい頃から芽生えていたけど
母は自分の思ったレールに乗せることで
安全に生きていけると言うことが
私への最大の愛情だったため
それはそれは過干渉だった。


何にしても口を出してきたが
当時の私は自分を否定されているようで
自分を殺されているようで
私は自分自身の存在もいつしか消していたのだった。


と思えば夫は物心ついた頃から
親と一緒に暮らしてないそうだ。


しかし全くすれてない。
逃避している様子もない。
産んでもらえてよかった。
親がいなかったおかげで
偏ったバイアスもないし、いろんな知恵がついて
大人になってから感じるのは、むしろ感謝しかない



そんなことを言ったりしている。



環境ではなく、自分の受け取り方なんだなと
いつも夫の話を聞いて思う。


話を記事に戻すが


人に合わせなければ得られない
と思い込んでいるもの


人に合わせなければ
自分に降りかかってくる災害


あるとしたら何か?
そしてそれは本当に
人に合わせなければ自分に降りかかってくるのか?


自分に問いかけてみることで
思わぬ偏りにハマってることに気づくかも?

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