見出し画像

嫌われるのが怖い

嫌われたくない、嫌われるのが怖いと
言ってる人を見て私は
おかしい反応かもしれないが


「いいなぁ」
と思ってしまう。



私は子供の頃から
自我が発達していたからか
納得できないことはしない
意味がわからないことは取り入れない
ということを貫いてきた。


こういう言葉にすると
カッコ良い感じもするが
子供だらけの中でこれをすると
何が起きるか?



とにかく嫌われる。



私は物心着いた時から
「人からなぜだか嫌われてしまう」
という概念が備わってしまった。



だからごくたまに
私のことを受け入れてくれる人がいると
ぱぁぁぁあああっと
気持ちが舞い上がって
奇跡が起きたような気持ちになった。



つまり、嫌われたくない
嫌われるのが怖いという気持ちを
つつつつっと辿ってみると


嫌われることが非日常である
と思っているとも捉えられる。
つまり「好かれること」が普通で
「嫌われること」がおかしいと。



だから嫌われたくない
って言ってる人を見ると


あらぁ。この方ずっと好かれてきたのねぇ
と思ってしまう。


または、私と同じような境遇で
もうこれ以上嫌われるのはごめんだ!
という思いから言ってる場合もあるかもしれない。



でもね、
嫌う人ってのは
嫌うってのは完全な自己都合なわけで
こっちには関係なかったりする。


もちろん、会う人会う人
全員に嫌われてしまい
それが自分が望んでない現実なら
振り返って改善する必要はあるが


基本的に
嫌うというのは


・自分の美醜レベルに当てはまってない
・自分の正義を犯された
・自分の大事なものをないがしろにされた
・自分を軽んじられた


みたいなことがきっかけで起きる感情であるから
どうしようもないのだ。



好かれることもまた同じで
こちらは何もコントロールができない。



好かれるときは好かれるし
嫌われるときは嫌われる。


嫌われて何かしらの
損失が起きる場合は
考えねばならないが


もうそこはノーコントロールで
いいんじゃないかとも思う。



嫌われたくないと
自分をおかしな形に矯正して
自分がどんどんわからなくなるよりは



普通に過ごしてて
それを魅力的だと感じてくれる人と
一緒にいる方がよほど健康的だと思う。



とはいえ、他人と関わる場合は
最低限でも
ルール・マナー・配慮・思いやりと言った
社会性は大切だと思うけどね


しかもその社会性って
コミュニティによっても変わっていくから
それも良く観察しなければならないけど。



ということからも
嫌われたくないとおもうなら
そこのコミュニティで
その人たちが何を大切にしているのか?
何を正義だとしているのか?を
よく観察分析して
接すれば嫌われることはきっとないと思う。


ありがたいことに
今の私は嫌われることはほぼ皆無になった。
昔の私と何が違うのか?と問われれば


自分の個性や信念は保ちつつ
相手との境界線を越えずに
相手の世界観を大切にしているから?かなぁ。


この記事が参加している募集

QOLあげてみた

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?