読みたいことを書けばいい

【書評】 『読みたいことを、書けばいい。』と「#ファーストひろのぶ」の裏側

これは、ひろのぶさんからの「挑戦状」だ。

それが、田中泰延さんの著書『読みたいことを、書けばいい。』の第一印象だった。ページをめくる手が止まる。わたしはこの挑戦を受けとめられるのだろうか?


「文字がここへ連れてきた」とひろのぶさんは言う。

わたしも同じ思いだ。わたしはいま、“街角のクリエイティブ”というメディアで映画コラムを書かせてもらっている。文字が、そしてひろのぶさんが、その道をひらいてくれた。

このお礼を伝えたい。

そして、初の書籍の出版を盛り上げたい。

そこで、“街角のクリエイティブ”の副編集長である金子ゆうきさん(@MondettaYuki)と相談し、実施したのが勝手企画「#ファーストひろのぶ」キャンペーンだった。「田中泰延ってなんて読むの?」「ひろのぶさんて、だれ?」と思った方は、Twitterで「#ファーストひろのぶ」を検索してみてほしい。ひろのぶさんの人柄を知りたいなら、それが一番の方法だと思う。


このコラムでは、「キャンペーン」と言いつつ、なんの賞品も特典もない企画の裏側を紹介したい。そして、わたしが「挑戦状」と受け取った本『読みたいことを、書けばいい。』について書いてみる。


勝手企画「#ファーストひろのぶ」

6月12日。
正式な発売日を前に、書店には本が並び始め、写真付きツイートが上がり始めた。在庫状況を知らせるツイートも増えていく。やるなら、今夜だ。

勝手企画「#ファーストひろのぶ」とは、初めて出会った「ひろのぶさん」を投稿してもらおうというものだ。記事の人もいれば、Twitterで見たという人もいるだろう。ハッシュタグ付きで情報を集め、まとめをつくってもいいかもしれない。ただし、多くの人に参加してもらえなければ悲惨なことになる。


本を買った人たちに届くだろうか。

キャンペーンに参加してもらえるだろうか。

なにより、この思いはひろのぶさんに伝わるだろうか。


20時。1ツイート目を投稿した。


これが、わたしの「#ファーストひろのぶ」だった。金子さんとふたりでハッシュタグを追いかけながら「いいね」とリツイートを繰り返す。15分後、まさかのご本人登場。


そこからはひろのぶさんの独擅場だった。追いかけても追いかけても、そこにはすでにひろのぶさんの足跡がある。素人に追いつける速度ではなかった。そして3時間ほど経ったころにはハッシュタグ数が100を超えていた。


わたしは1年前まで、ほぼツイートをしたことがなかった。タイムラインを眺めているだけで「いいね」さえ押したことがない。おずおずとつぶやくようになったのは、そして、ひろのぶさんとのご縁をいただいたのは、“明日のライターゼミ”がきっかけだった。


金子さんがついているとはいえ、ド素人の立てた企画だ。なのに、これだけ多くの人が初めて見たハッシュタグに反応してくれるなんて。それだけ、ひろのぶさんが愛されていた証なのだが、小さなひとつぶがネットの海に広がっていく様子に興奮した。

会ったこともない、話したこともない人が、思い思いにひろのぶさんとの思い出を綴る。会話が生まれる。そこには大好きな記事も、驚きのエピソードもあった。

日付を越えたところでスマホから離れたが、まったく眠れない。本屋を周って友人の分まで確保した本は、まだ1ページも読んでいなかった。


翌朝。
申し訳ないことに、「#ファーストひろのぶ」は、本のハッシュタグである「#読みたいことを書けばいい」を超えていた。

画像1


そして発見したのが、このツイートだ。

西島知宏さん登場。

本でも触れられているが、“街角のクリエイティブ”の編集長であり、“明日のライターゼミ”の主催者である西島さんこそ、ひろのぶさんにファーストに声をかけた方だ。

ファーストひろのぶを生んだ、ファーストのツイート。

金子さんと企画について打合せしていたLINEのトークルームには、西島さんもいた。が、特になにも仰ってはいなかった。ついでに言うと、広告のプロとしてのアドバイスもなかった。いまになって金子さんと話している。

なぜあの時、「ベスト」ではなく「ファースト」だったのだろう。

たぶんわたしは、「ベスト」という言葉から生まれる「ランキング」感を避けたかったのだと思う。それよりも、誰もが経験する「ファースト」に注目したかった。ご縁の始まりを太くするのか、一度限りにするのかについて、考えてみたかったのだ。

およそ出会いにおいて「ファースト」ほど大切なものはない。それが数十年の付き合いにせよ、Twitter越しの一年にせよ、多くの人と一緒に語れるのは「ファースト」だと感じた。
(実は、わたしの「ファースト」は2回ある。あまりにもマヌケな話なので、コラムの最後にこっそり置いておきます)


もし、まだ「ひろのぶさん」を経験していない方は、「#ファーストひろのぶ」の検索をお勧めする。数々の記事やエピソードに触れることができる。大喜利も人生を変えたひと言もある。気になる記事があれば読んでみてほしい。

でも。

ひろのぶさんの言葉がまとまっている「本」があるのだ。それが、『読みたいことを、書けばいい。』である。


ひろのぶさんの「挑戦状」

この数年でコピーライターの仕事術を紹介する本が一気に増えたように思う。言葉の練り方・インサイトの見つけ方・日々の気付き・やりきる力などなど。

プロのコピーライターがこうした術を惜しげもなく公開する理由は、悲しいかな、「すべてをやり通せる人はいない」からだろう。言葉に対する感覚やモノゴトを見つめる目、エッセンスにたどりつく思考力は、徹底したトレーニングの上にのっている。それは“明日のライターゼミ”の講義にも感じていたことだ。

なかでも、ひろのぶさんは「物書きは『調べる』が9割9分5厘6毛」だと語る。一次資料にあたり、心象を語るための強度をつくれ。調べあげた事象を書けば、読む人が主役になれる。

これは、プレスリリースと検索でコンテンツを量産し、“こたつ記事”と揶揄されてきたネットメディアへの強烈なアンチテーゼではないのか。


話は変わるが、わたしの大好きな書き手に米原万里さんという方がいる。ロシア語の同時通訳者として、エッセイストとして、大活躍された方だ。

米原さんがいう同時通訳の魅力はこれだ。

毎回違う分野の通訳を引き受けて、それを勉強して、その場に行って、新しい世界を知るというのが面白いんですよ。
『言葉を育てる 米原万里対談集』より

たった一度の通訳のために全身全霊を傾けて準備をするため、「調べる能力」が鍛えられたという。その現場が終われば、生涯で二度と使うことのない言葉で自身をいっぱいに満たす。それが通訳の仕事だ、と。

その調査能力はエッセイストとなっても大いに発揮された。たとえば『パンツの面目ふんどしの沽券』という本では、「パンツ」と「ズロース」の違いについて調べるため、旧ソ連時代の小説にあたり、フランス語の語源を調べ、アメリカで使われるようになった言葉をみつけ、『大ソビエト百科事典』を引く。

膨大な知識と探究心が本からあふれ出してくる。それをしっかりと咀嚼してから、おもしろおかしく語ってくれる。

これぞ、ホンモノの物書きの姿なのだ。

「物書きは『調べる』が9割9分5厘6毛」。そうだ。人を魅了する読み物を書く人たちは、やっていることなのだ。調べる過程を楽しんでさえいる。そうして事実を積み上げ、心象を語り、笑わせる。では、お前はどうなのか。

資料の山に埋もれたことはあるか。

その結論を支える過程は強固か。

その文章に敬意はあるか。

どんなにありがたい講義を聞いても、本を読んでも、たぶん「すべてをやり通せる人はいない」。日常にまぎれて消えてしまう。たぶん、わたしだけではないと思う。そして再び、「書けない」と悩む。
つまりこの本は、文字を綴る人への「挑戦状」なのだ。


ライターになりたいと考えている人、すでに書くことを仕事にしている人はもちろん、『読みたいことを、書けばいい。』は日々さまざまな情報に触れるすべての人におすすめできる本だ。

ただ、ライターを目指す人には恐ろしい内容でもあると思う。1文字〇円のライティングがライターの仕事だと思っていた人には、目からうろこの話が多いだろう。そしてたぶん、心からの敬意が生まれると思う。


「挑戦状だなんて、そんな怖い本は読みたくない」と考える人は、タイトルに注目してほしい。

『読みたいことを、書けばいい。』。

なんてやさしいんだろう。

ビジネス書のタイトルには、「〇〇力」「△△せよ」といった強い言葉が並ぶことが多い。そんな中で、この本はそっと語りかけてくれるようじゃないですか? 編集者の今野さんが用意したものだそうだが、「こうすればいいんだよ」と手を引いて、進む先を照らしてくれるようでもある。

この本に書かれていることを実践できるかどうかは、書く人である「わたし」の覚悟しだいだ。


わたしは、自分が読みたいことを書くために、今日も調べ物をしている。ひろのぶさんの「挑戦状」に対し、正面から受けてたてるようになりたいと願いながら。


最後に、わたしが経験した2回の「#ファーストひろのぶ」について。
先にご紹介したように、知人におもしろい映画評があるよと教えられて、“街角のクリエイティブ”をのぞいた時が「1回目」だと思っていた。実は、気づいていなかったのだ。わたしが数年間眺めていたTwitterのタイムラインで、いつも大喜利をしている人と同一人物だとは!

気づいたのは、ひろのぶさんが“明日のライターゼミ”の講師に来られると知った時だった。


本の中でひろのぶさんは「何を書いたかよりも誰が書いたか」だと仰っている。腰の痛みに耐え、苦しい思いをして文字を綴ってまで人に知らせたいことがあるのなら、自己紹介がいらない人になった方が早い。「誰が」になればいいのである。

この言葉に、小さく反論したい。

わたしは「誰が」書いたのかではなく、「中身」を見て、読み続けていた。結果的に、同じ人にたどりついていたのだけれど。

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