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全方位的に衝撃的な善意の本質 『流浪の月』 #313

若いころは「おせっかい」だったなーと思います。会社で一番年下なのにマネージャーになったこともあって、周囲にめちゃくちゃ気を使っていました。そして、疲れた。

「おせっかい」の源は「善意」だったのだと思いますが、いま考えると、他人を信頼していなかっただけかもしれない。

「善意」とは、他人や物事に対してのよい感情や見方のことですが、自分の「善意」が絶対的なものになってしまうと、暴走を始めます。

せっかくやってあげたのに、お礼も言わないなんて失礼な人!

と思ったり。

「自粛」しないなんて許されない!

と攻撃したり。

そんな時は、「善意」による言動が、誰のためにしたことなのかを振り返ってみるといいかも。

相手が知らないこと、苦手なことを手伝いたいのか。

その指摘をすることで、自分の気分がいいのか。

求められてもいないことに口を出すことが「善意の行動」ではありません。相手の立場や背景を想像することなく、指摘することで「せいせいする」と思っているなら、やばみです。


相手への共感と善意は、まったく別のところにあるのだなと感じた小説が、凪良ゆうさんの『流浪の月』でした。2020年本屋大賞の大賞受賞作です。

この小説、全方位的に衝撃を受けました。

主人公の家内更紗が小学生だった時から、物語は始まります。自由で、マイルールに忠実な母と父との暮らしは、父の死によって崩壊。叔母宅に引き取られたものの、性的虐待を受け、公園へ逃避。そこで知り合った青年・佐伯文の家で暮らし始めます。

両親とのかつての暮らしのように、のびのびした時間を取り戻した更紗。「動物園に行きたい」とねだったのはよかったものの、すでに「行方不明の少女」として報道されていた更紗は通報され、佐伯文とも引き離されてしまう。そして、大人になった更紗は、真夜中にしか営業していない喫茶店で佐伯文と再会するのです。

インターネット上で公開された情報は消すことができません。それを「デジタルタトゥー」と呼ぶそうです。

佐伯文と更紗に押された「デジタルタトゥー」。でもそれは、実態とはかなり違っていました。説明しても誰も耳を貸さない。なぜなら、ネット上にある情報は、ふたりを犯罪者と被害者として扱っているからです。誰も真実になんて興味がない。

どこに行っても、何をしても、発見されてしまう恐ろしさ。

佐伯文との楽しかった生活と、「かわいそうな被害者」扱いとのギャップ。

性的被害について、語ることができなかった恐怖。

身体的な障害について、語ることができなかった痛み。

画一的な鋳型に押し込められる教育の恐れ。

軽んじられることによる苦しみ。

いろんなところに、「あ、イタい」が埋め込まれていて、何度も息が詰まりそうになりました。善意の「レッテル」によって窒息しそうになるのです。更紗も、佐伯文も、読んでいるわたしも。


いろんな失敗を重ねて、「おせっかい」を焼きたくなった時は、一度、自分に聞いてみることにしています。

自分の仕事としてやりたいのか。

「いい人」とみられたいのか。

端から見えることなんて、いくらもない。なのに、分かったふりをして共感したり、善意を安売りしたくない。

「自分の善意が理解されない」と感じることがあれば、ぜひ読んでみてください。その善意が、どこに向かっているものなのか、振り返るきっかけになると思います。


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