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食のかたちとにぎわい

 一雨ごとに秋の深まりを感じる日、50年近く前のことを思い出しました。生家の縁側は、午後からも日差しが入るお気に入りの場所でした。雨が降ると、外で遊べず友だちを誘いにも行けないので、道路に面した縁側から、道行く人を見て、挨拶したり遊ぼうと手招きしたりしていました。暇を持て余すときには、自治会館に行きました。

だれもが入れる場所🏡

 集落の真ん中に、自治会館🏡がありました。2階は、自治会の役員会を開くための和室でした。階段下に、靴を脱いで上がります。広間を仕切るふすまを外し、多くの人が集まるときには、大きな空間にします。

 時には母親たちが、各家庭から持ち寄った総菜を長机に並べて、小皿に取り味見をしながら、洋風料理、煮物や漬物などの作り方を教えてもらっていました。メモを見ながら挑戦していた母を思い出します。子どもは、おかずだけでなく甘いおやつも食べさせてもらえました。

 1階は、精米所と農機具庫でした。使われなくなってからは、子どもの遊び場になりました。土間の部分はコンクリート、半分は板を敷いてありました。気軽に、土足で出入りしていました。
 誰でも使って遊べる卓球台🏓やバドミントン🏸のセット、百人一首、オセロやかるたなども置いてありました。外遊びのかくれんぼや鬼ごっこにあきると、カードゲームを楽しみました。屋根がある出入り自由な空間の出入り口は、雨戸のような大きな戸があり、鍵はかけていませんでした。

 秋雨の降る退屈な日に、園児、小学生、中学生が、ぽつりぽつりと集まってきました。小学生低学年だった私は、いつもよりも多くの年上の人にワクワクしていました。年上のお姉さんやお兄さんがカードを使った手品を見せてくれました😊

 その中には親戚のお姉さんもいました。小さな子も楽しめる遊びが終わり、年上の人がゲームを始めました。
「マッコレイちゃん、ここで一緒に見る?」
と声をかけられて、輪の外側から中心へと呼ばれました。トランプを鮮やかに繰り、カードを配ります。ポーカーが始まりました。小さな私は分からないけれど、
「次はこのカードを出して。」
と、お姉さんに言われたままに出すと
「あがり!やったね!」
と褒めてもらえました。思えばここで、ポーカーも花札🎴も覚えました😁

そこは子どもたちの社交の場でした。


情報交換の場所

 自治会館は、子どもの遊び場でもあり、少し上の世代から伝承遊びや地域の情報を引き継ぐ場所でした。

 集まるメンバーは日により違います。誰かいないかな?と見に来たり、誘われて来たりしていました。そろばん、習字、ピアノ🎹など、限られた習い事しかなかった時代です。中学生や、時には高校生も余裕がある時は、小さな小学生たちの面倒を見ながら遊んでくれました。

 今でも、実家の墓参りなどで合うと、
「〇〇さん、ご無沙汰しています。」
と上の人も下の人も、名前を呼んで挨拶できます。

 自然豊かな田舎ですから、カブトムシやクワガタムシが生息する場所や、ヤマ栗の木、アケビの実がたくさんついている木、数珠玉やシャボン草の生えている場所など、大切な地域の情報を受け継ぎました。

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ジュズダマに糸🪡🧵を通せば、ネックレス。

 子どもならではの情報もありました。子どもはいつもお腹をすかしています。食べることのできる植物については、必ず上の人からの情報を、下の子に伝えていました。学校帰りに、口に入れて食べながら帰宅しました。

 イタドリ・ギシギシなどはそのままで。
ツクシ・ヨモギ・フキ・ノビル・セリ・ナズナ・フキノトウなどは、調理していただきました。特に天ぷらが大好きでした。キノコなど危険な食べ物についても教えてもらいました。

 また、子どもの味方になってくれる大人の情報もありました。
「〇〇さんは、怒ると恐いよ。いたずらはだめ。」
「△△さんは、優しくておやつをくれる。」
など、近所の大人情報も共有していました😁

 しかしいつの頃か自治会館は壊され、鉄筋コンクリート造の2階建てになりました。立派な建物なので、施錠管理されています。今は気軽に入れないからか、子どもの姿を見ることがありません😢


『縁食論』~孤食と共食のあいだ

 今、私の住む街にも「子ども食堂」があります。50年前を思い出せば、おやつは、近所の人からも、手作りおやつをたくさんもらっていました。私の親も周りの子どもたちに渡していたのかもしれません。柿、栗🌰、グミ、なつめ、ふかし芋、焼き芋🍠おもち、団子🍡、カップ麺など。
 気づいていなかっただけで、おやつやご飯を食べされてもらっていない子もいたのかもしれません。

 グループホームや子ども食堂、子育て支援など、ひっくるめて地域の居場所があるといいなぁ。そんな話を友人としていたら、上記の書籍📖を教えてもらいました。もっと気軽に、食べ、遊び、人と出会える場作りのヒントを見つけたくて読んでみました。

歴史学の立場から

縁食とは、孤食ではない。複数の人間がその場所にいるからである。ただし共食でもない。(中略)ある場所の同じ時間に停泊しているにすぎない。これは「共存」と表現すると仰々しい。むしろ「並存」のほうがよい。そんなゆるやかな並存の場こそ、出会いも議論もますますSNSに回収される現代社会のなかで、今後あると助かる人が多いのではないか。子ども食堂のユニークさも、この縁食にあるのではないか。
「縁食論」孤食と共食のあいだ(藤原 辰史氏)


 50年前の自治会館の裏手は空き地でした。そこで焚き火🔥が見えると、何人かの大人達が集まって話したり笑ったりしていました。子どもは、近くで遊びながらそんな大人たちの様子を見ています。焚き火🔥で、焼いた熱々で焦げているサツマイモ🍠を分け合って食べさせてもらいました😊


アウシュヴィッツの縁食

 『縁食論』の最後に、アウシュヴィッツ強制収容所での、食事の風景について紹介されていました。極限状態にあるアウシュヴィッツでの「居心地の良い空間」についてです。

 テンプラーという男性が、50キロのスープを15人の構成員で山分けしたという内容でした。(『これが人間か』プリーモ・レーヴィ)

 著者の藤原辰史さんが、文末に書かれていた文章は、あまりにも重く強烈でした。
 最後に、誰もが安心して食べることができるそんな空間が広がっていくよう、願いを込めて記載します。


50キロのスープが、これほどまでに荒んだ心を、荒んでいることを味わえるまでには回復させる事実、そして、極限の状態であっても、スープに集う人びとに、他者を気遣い、他者と言葉を交わし合う「居心地のよい空間」を味わわせた事実は、いまもなお、殺されていないはずである。
「縁食論」孤食と共食のあいだ(藤原 辰史氏)


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