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長谷川スケール考案者の告白『ボクはやっと認知症のことがわかった』への敬意

 皆さまこんにちは。
 いつもありがとうございます。

 認知症の診断素材としてすっかり定着している「長谷川スケール」。これを開発した方による著書です。

 まず、自らを認知症であると公表してくれた長谷川さんと、長谷川さんの奥様に心から敬意を表したいです。

「長谷川スケール」を体感して

 長谷川スケールは本当にすごいです。私、親が認知症かどうかを診断する場に同席しました。記憶の系統が乱れていることが、手に取るように分かり、正直、その場で私はうなだれました。意外に短時間で診察は終わったので、その場では「本当にこれでわかったのかな」と疑問を持ったのですが、後日いただいた診断書にあった所見は、文字がビッシリと書かれ、なおかつ見事に状況を言い当てていました。感動しました(涙も出ました)。

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 この、認知症に対する確固たる診断素材が生み出されたの1974年。つまり、50年も経していないことに驚きました。

かなり歴史が浅い介護システム

 そして高齢者に対する介護のシステムも、今の状態が始まってまだ数十年も経っていません。一世代前であったら、グループホームというものも、高齢者の介護施設もなかったわけです。となれば親を自分の家で面倒を見なければならないことになります。仕事との両立は成り立ちません。ぞっとします。今の私たちは本当に恵まれていると思います。

 私は親の「成年後見人」になっています。その経緯は以前書きました。


 これも稼働したのが2000年ですので、わずか20年に過ぎないのです。歴史が浅い。ということはまだ改善の余地がある、ということなのだろうと思います。実際、ちょっと不備を感じることもあります。

 ただ、「認知症」という名称自体もまだ半世紀も使われていないのですが、それでいてここまで福祉制度がしっかりしていることはすごい思います。

 以前は「自分は認知症である」と公表することもはばかられていました。認知症研究の第一人者の方が自ら公表してくださったことの意義は、本当に大きいと思います。

 そして、著者も述べていますが、認知症とは高齢者になれば発症する確率は高まり、2025年には5人に1人が認知症になっていると予測されています。

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 親も、祖父も認知症になっていますので、血筋として私も将来そうなるのだろうと思っていましたが、上記の事実を知って「誰でもなり得るのか」とちょっとだけ気が軽くなりました。この本を読んで良かったと思います。

これは「人づきあい」に共通している

 著者が述べていることです。

「こうしましょう」といわれると、ほかにしたいことがあっても、それ以上は何も考えられなくなってしまう。それは人間としてあるべき姿ではない。だから「今日は何をなさりたいですか」という聞き方をしてほしい。そして、できれば「今日は何をなさりたくないですか」といった聞き方もしてほしい。

 それから、その人が話すまで待ち、何をいうかを注意深く聴いてほしいと思います。(中略)認知症ややはり、本人もそうとう不便でもどかしくて、耐えなくてはいけないところがあるから、きちんと待って、じっくり向き合ってくれると、こちらは安心します。

 猪熊律子さんによる解説文の中にはこんなことが書かれています。

 取材を続けていると、突然、話が脈略のない方向へ飛んでいってしまったり、理解できない言葉をいわれたりすることがある。しかし、それは認知症でない人でも起こりうることだ。
 また、「話がどこかに飛んでいってしまった」と感じても、最後まで聴き続けていると、遠回りながら最終的に話が戻ってきてつながることがある(中略)「時間がないから」とこちらの勝手な都合で話を遮ったり、「いっていることがわからない」と理解すること自体をあきらめてしまったりするのは簡単だ。だが、それらはたいへん失礼なことなのだと取材を通じて気づかされた。

 私には、90歳近くになる義親がいます。義親は認知症ではありませんがたしかに理論づけた話にはなかなかなりません。が、毎日顔を突き合わせているわけではない。ときどき会って話をする程度ですので、結局お話の結論に到達しなかったとしても何とも思わないようにしています。「で、結局何が言いたいのですか」と尋ねることはありません。

 社会人としても、ここは大切にしたいところかもしれません。

 ただ、「これは私の発想力にはなかった」と気づかされた箇所もありました。再び長谷川さんの文からの引用です。

 ある晩、家内とボクと下の娘が食事に行ったところ、アルツハイマー型認知症となった家内の父親がこういったのです。
「みなさまはどなたですか? どなたかわからなくて困っているんです」
 とても不安そうな様子に、ここまで症状が進んでしまったかと家内もボクもショックを受けて、シーンとしてしまいました。どうしようか、何と答えようか。そう考えていると、下の娘がこういいました。
「おじいちゃん、私たちのことをわからなくなったみたいだけど、私たちはおじいちゃんのことをよく知っているから大丈夫、心配いらないよ」
 それを聞いて、義父はとても安心したようでした。

認知症ではない人にはどうするべきなのか

 身につまされた大きな理由は、私の親も認知症だからです。

 もっと言えば、二人の祖父も認知症になりました。だから私にもおおいにその可能性はあるのだと思います。なので、もし認知症になったとしても、長谷川さんのように対応できるように努力しよう、と思うことはできます。

 問題は妻が認知症にかかったときです。私はどうなってしまうのか。そちらのほうがずっと心配です

 先の猪熊さんのところにあった、「話が飛んでも、しばらくすると話が戻ってくる」というクダリ。うちの妻は健常者ですが、毎回この状態です。質問をしても、答えが返ってくるまで20分ほどかかるときもあります。私の質問に対してだけでなく、私がいる場においては、誰に対しても同様です。「そうだ」「そうではない」と最初に言ってほしいのですが、それが来るまでに数分は必要です。

 同席していて私はとてもイライラしてしまいます。親は認知症なので、ちょっと辻つまが合わないことを返事されても何とも思いません。我慢する、という認識もありません。

 でも妻を「認知症の人」とは思いづらい。

 今でさえこの調子です。もし妻が本当の認知症になったとき、どんな症状が出てくるのか、そしてそれに私は耐えられるのか。

 親のときは「耐える」という観念が生じませんが、妻に対しては「耐えなければ」と思わざるを得ない。この違いが、私の中に確実に存在ます。なぜこの違いが生じるのか。ひとつは、毎日会話をしなければならないという理由が考えられます。ほかにも原因を考えているのですが、まだ答えを発見できずにいます。

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