一度も目にしたことのなかった「ルーツ」を知る旅(おそらく最後)
私が一度も見たことのない、祖母について調べた話です。
これまでの経緯
こちらに記しました。
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https://note.com/33536631/n/n9369acc07868
2
https://note.com/33536631/n/n591eaa0e5e16
酒田市は山形県の北部にある。
山形県内には空港が二つある。山形空港と酒田空港だ。酒田市の人たちが山形空港へ行くにはかなりの距離がある。秋田県の南部に暮らす人にとってもこの酒田空港は有益なのだろうと推測する。
一度だけ、酒田市には仕事で行ったことがあった。歓待を受けた。山形市や米沢にも行ったことがあって、その地の人もいい人ぞろいだったが、酒田市もそれを上回るのではないかと思うほどであった。
しかし、いかんせん、遠い。
市役所に問い合わせたところ、戸籍の取得だけであれば、郵送申請ができると教えてもらった。調べたい人のフルネームと生年月日を聞かれるのでそれに答えると、2通取得するという。戸籍は1つ取るごとに750円、さらに返信用封筒も用意する。郵送代も発生する。
記入用紙をダウンロードしたものの、「ここには何を書くのだろう」と?マークが頭に浮かび、再び市役所に電話する。
「これでいいのかな」という一抹の不安を感じながらポストに投函。翌週のなかごろには郵便物が届いた。
雑記
母の名 F美(仮名)
母の母の名 T坂M子(仮名)
M子は大正3年3月生まれ。その父は明治19年9月生まれで大正2年、余目村(たしか酒田市の隣町)に生まれ、その後養子縁組として結婚。ところが大正4年10月、父は東田川郡藤島村の田園で亡くなっている。おそらく事故死なのであろう。M子はまだ1歳半だ、本当の父親の顔を覚えられるはずもない。大正7年3月、飽海郡平田村の池田家から養子縁組がありM子の母は再婚。3男2女を設けた。
昭和13年3月、東京市下谷区において婚姻届を出しているが、15年7月に協議離婚をし、酒田市の実家に戻っている。
そして昭和21年、私が知る祖父・周治のもとに嫁いでいる。周治は大正6年生まれ。「姉さん女房」ということになる。周治にとっては初婚だ。
M子が31歳のときに私の母は生まれている。初産の年齢としては、当時としては遅いほうだったであろう。
そしてその後逝去したのは、前にも書いたとおり。40歳という短い生涯だった。
なぜ協議離婚に至ったのかは分からないし調べる必要もないだろう。ただ、少なくとも言えるのは、この離婚がなければ再婚もなかったわけで、となれば私の母も産まれていなかった。
そして私の母についてもそうで、下の兄弟とは母親が違っている。私の母の母も父親違いの兄妹と生活していた。
どちらも死別によって生じたものである。なんの因果であろうか。
長い宿題
長い宿題にひとまずの区切りがついた。
これで宿題は済んだのだろうか。
私自身、早い年齢の時に結婚して家を出た。親孝行とはまったくの無縁だった。親孝行だと言えることは、ただひたすら勉強して親を困らせないように生活し、浪人せずに大学へ進学したことぐらいである。自分から何かをしたことなどない。
いつになるか分からないが、時間ができたら酒田の本家に行ってみたい。その当時を知る方はもう誰も生きていないだろうが、血がつながっている人が東京にいることを伝えたい。見たことのない母は東京の墓地にいることを報告したい。
否、その必要は無理してつくる必要はないのかもしれない。世知辛い世の中である。もしかしたら「財産狙いか?」と思われるかもしれないし、その場で何かお小遣い(餞別)をもらったとしたらそれはそれであまり気分のいいものではない。
ただただ、「孫がもう50歳を超えましたが、こうやって東京で暮らしております」と言いたいだけである。
追記
これを調べたのはもう2年近く前のことになる。今振り返ると、「なぜここまでがんばっていたのか」と思う。結構大変な作業だった。もっとヒマになってからやったって良いことだったのかもしれない。
ただ、ここまで調べられるのは私しかいないのも確かである。
今、私はめっぽう忙しくなった。とてもじゃないがこんな調べものはできそうにない。だからこそ、2年前にやっておいて良かったのだと思っている。
たぶん母が草葉の陰で「よくもまあそこまで調べたねぇ」とあきれ顔をしていることだろう。
それでいい。自己満足である。
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至ってごく普通のサラリーマンのつもりですが少し変わった体験もしています。