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11月のランドセル【昭和のあの頃】

この記事はyoutubeでオーディオブックのように聞くことも出来ます。ご希望の方は上プレイヤーで再生してレトロなBGMと共にお楽しみください。
記事とYOUTUBEでタイトルが違いますが内容は同じです。

小学校への入学。
一番に思いつくのはランドセルではないでしょうか?

私には三歳違いの姉がいて、
姉のランドセルがとてもうらやましく憧れでした。
ランドセルに教科書を出し入れするのさえもカッコ良く見えました。

以前もお話したように、私が住んでいたのは田舎で、カバン屋さんとか、くつ屋さんのような専門店はなくて、歩いて10分ほどの所に何でも屋さんがありました。




食品から衣料品、文房具、農作業の道具など大体の物はありました。


秋も終わりに近づくと、この何でも屋さんの店先の少し高い所に、赤と黒のランドセルが、ひとつづつ並べられるのです。
次の年に小学校へ入学となると、この何でも屋さんに注文して取り寄せてもらっていました。
私もそんな日が来るのをずーと楽しみに待っていました。

姉が小学校に入学してから三年、ついに私にもその日が来ました。

ある日、祖母が私に何でも屋さんにランドセルを注文に行こう。
と言ってくれたのです。

私は嬉しくて嬉しくて、とび跳ねて喜びました。
何がそんなに嬉しいかって?

それはランドセルを注文してもらえるのも、勿論嬉しいのですが、
大のおばあちゃん子だった私は、祖母と一緒に何でも屋さんに行って
ランドセルを注文してもらえるのが、嬉しくてたまりませんでした。

祖母が、「ランドセルを買ってあげる」とずーと言ってくれていて
ついにその日が来たのです。

何でも屋さんに着くと、祖母がランドセルを注文してくれました。
すると、店のおばちゃんがランドセルをおろして、私に背負わせてくれたのです。

祖母と店のおばちゃんに、

「似合う。似合う。」

と言われ私は本当に嬉しくて、何でも屋さんには鏡は無かったので、ジュースの入った冷蔵庫のガラスに自分を映して見てみました。
冷蔵庫のガラスに映ったおかっぱ頭の私は、満面の笑みでこれ以上の嬉しい事はない。
そんな顔でした。
何でも屋さんの帰り道、私はただ、ただ嬉しくて祖母に

ありがとう。
勉強、頑張る。
いっぱい頑張る。

そんな事を言った気がします。
祖母とつないだ手を大きく振りながら家に帰りました。

この時は、あのランドセルで小学校に行ける。そう信じていたのです。

その年の暮れ家に一つの小包が届きました。
(今で言う、宅急便、宅配便です)

私たち兄弟は小包が届くと、何が送られて来たのか?
母が包みを開けてくれるのを、そわそわしながら待っていました。

この時もそわそわしながら待っていると、薄茶色の包み紙に包まれた箱の中には赤いランドセルが入っていました。
でも、そのランドセルが、祖母と一緒に何でも屋さんに行って注文したランドセルでない事は、一目でわかりました。

姉はランドセルを持っているし、弟が小学校に行くのは何年も後で、ましてや男の子です。

すぐに家族のだれもが私への物だとわかりました。

が、私は

いらない。かえして。

と、勝手な事を言っていました。

困った母は私をなだめるように、
「背負ってみたら?」と、ランドセルを背負わせてくれました。

でも、もうその時すでに私は涙が止まらなくなって、私は泣きじゃくっていました。
何でも屋さんで注文したランドセルと仕様が違うとか、色が少し違うとか、そんな事ではないのです。

祖母と一緒に何でも屋さんで注文したランドセルがいい。
それだけなのです。
祖母が買ってくれたランドセルで小学校へ行きたい。
それだけなのです。

私がどんなに楽しみにしていたかは、家族のみんなが知っていたので、みんな困った様子でした。
そして、祖母が本当に困った顔をしていたのです。
なぜなら、ランドセルを送ってくれたのは、父の弟で祖母の息子なのです。

この時、大好きな祖母の顔が悲しくて、私は幼いなりに何か思うものがあったのだと思います。

私は祖母の横に座り
「このランドセルで行く。」と言いました。

祖母は私の頭をなでながら、私がいつも、
小学校に行ったらノートもいる。
と言っていたので、

優しい声で
「こんど、帳面買いに行こうかっ?」

と言ってくれました。
すると私はまた、涙があふれてきました。
でも、この時はランドセルとかノートとかそんな事じゃなかったと思います。

ただ涙が止まらなくて、

私は、祖母の傍でずーと泣いていました。


画像引用元:Amazon.co.jp



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#思い出話 #昭和レトロ #ランドセル #昭和時代 #昭和の思い出

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