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【勝手なエッセイ】もうこの世界で、上っ面な平等なんていらない。

私は、今、アメリカのサンフランシスコ、シリコンバレーに住んでいる。

私は30年近く日本に住んできた
ただ、高校でも外国語科クラス、
大学でも98か国の国からくる半分の授業を英語で受ける必要のある学校で
ちょっと変わったチョイスを好き好んでしてきたこともあり
アメリカに住むことに、仕事面以外の抵抗は全くなかった。

そんな私でも、THE日本人がやっぱりしみ込んでいるんだな~と思ったエピソードが。

アメリカでは、
こうであったらな~~~。
こうして欲しいな~~~。
と他人に心の中で要求したい事があっても、言わないと要求は通らない。

たとえそれが、
THE日本的に考えたら「それが平等で、一般的に普通にすることだよね???」というトピックスであっても。

日本人の人たちと話をしていると、
子どもの学校の事で、「当然、自分の娘、息子も受けれると思っていた」という機会(授業など)があっても
子どもたちが、それを「やりたい!」と発言しないと
「やりたくない」という選択を取ったと同じ事とされることがある。

平等な機会はあっても
それを享受したいと「発言」しないと、
それは享受できない事が多い。

私を含めたここに来たての日本人ママは、それに対してとても怒っている事がある。

「言わなきゃ受けれないってどうゆうこと???」
「うちの子はシャイだから言えないよ、、、ケアしてよ、先生」
「平等にしてよ。」と

私も最初、少し怒っていたけど
1年住んでみて、たとえ先生がケアしてくれたとして
これからの社会で生きていくには、そんな上っ面な平等が子どもの中で当たり前に享受できるものとして育ってしまったら、危ないなと思うようになった。
(今の私たちのように・・・・)

===
体育祭はみんなでゴール、
勉強はみんなが同じように出来るまで待つ、
No1は決めずに平等に。
===

そんなことをまだ日本でもしていたら
そんな生ぬるい社会で生きてきた人は
上っ面な平等に慣れすぎて、何もできない、何も仕事をさせてもらえない
ただの受け身な人間になる。
これは、確実にもうそこまで来ている未来。
そう思った。

「学校」という場所が、社会に出るまでの訓練の場だとしたら
少なくとも「本当の世界」「本当の社会」をちゃんと見せることも
本当の平等だと思う。


上っ面な平等なんて、
目の前の幸せは享受できるかもしれないが
長期的な不幸が待っているように思う。

私の娘は、今、アメリカの公立小学校に通っている
何かいいことをすれば、カードがもらえて
カードがたまると小さなギフトがもらえるようだ。

でも、彼女は良いことをしてもカードがもらえないと泣いていた。
そんな時に、私たちは
「私はこんなことをした、他に何をするとベターか、と先生に言ってみな。」とアドバイスしてみた。

そう、カードは決して平等には配られないのだ。
上っ面な平等に慣れすぎた人間は、大人になっても同じようにそれを望む。

でも、これからは「私はこれが欲しい」とちゃんと発言するべきだ。
そうすると、意外とすんなりカードはもらえる。

カードをもらえる機会は、実は、平等にあるのだ。
ただ、それを欲しいと「いうか」「言わないか」の違いだけで。

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