見出し画像

映画『ほかげ』感想~貧しさの裏にある豊饒さと働くことの意味~

「貧しさ」というキーワードで塚本晋也監督『ほかげ』は語れるんじゃないか。そう思いました。

敗戦直後の闇市を中心に繰り広げられる、行き場が無い(ように見える)人々が織りなす物語。

映画「ほかげ」公式サイト | 塚本晋也監督作品 趣里 森山未來 出演。 (hokage-movie.com)

ここでは(映画サイト等導入で分かる事以外は)ネタバレを避けながら、冒頭に書いた「貧しさ」等複数の側面から、『ほかげ』の感想を書いていきます。(終盤章のみネタバレあり)


(1)「貧しさ」とは何か

①登場人物の動きや台詞の「貧しさ」

戦争で適切な教育が不足していたのか、それとも境遇を反映したものなのか、登場人物の台詞は全体的に、一言一言簡単な言葉を紡いでいき、最低限の語彙で話している印象があります。

逆に言えば、物語に無駄が無いため、本当に伝えたいことを登場人物が伝える際に、その内容の威力や豊かさがより伝わるようになっています。

また言葉では無い眼差しや表情の迫力も、俳優の演技力と相まって大きく伝わってきます。パンフレットで武田砂鉄氏は以下のように書いています。

『ほかげ』を見て、終始感じたのは、眼差しの強さだ。女も、戦争孤児も、復員兵も、テキ屋の男も、眼で話しかけてくる。眼で話しかければ、口で話さなくても済む。それぞれに話したくないこちがあるから、眼を使う。受け止め切れない経験が体を充満しているからなのか、感情の整理を拒むように、多くを語らない

映画パンフレットより

戦争という私達にとっては非日常(ということになっている)なテーマを映画で扱うと、説明的な台詞が多くなり、言葉に動きや表情が追い付かない問題があります。

しかし本作品はそういった問題に陥っていません。登場人物同士が最低限の言葉で話し合い、関係を構築していって語彙も豊富になり、表情が豊かになっていく時に、悲惨な環境に一輪花が咲いたような感動がありました。

また登場人物の動き(というシーン)として無駄が無いが故に、中心人物の一人である女性が身体を売らないと生活できないという設定でありながら、物語の展開や表現として必要な箇所以外、無駄に脱いだり、行為をするシーンが無いのは好感を持ちました。

②低予算

正直一部の「力の入った」セットを除き「近所の自然や古びた建物でも撮影できるのではないか」と思ってしまうような低予算な印象を作品から受けました。

しかし低予算=安っぽいとならないのが塚本監督の凄いところで、全体的に低予算な感じがあるからこそ、逆に「力の入った」演出や効果音、塚本監督が得意とする世界像が変容するような超現実的なシーンが際立つようになっていました。

これが逆に莫大な予算をかけることができ、全体的に「力んだ」映画になってしまっていたら、塚本監督の魅力が際立たず、内容的には貧しいものになっていたかもしれません。本当に実力や表現力のある人にお金が集まって欲しいとも思うし、難しいところです。

(2)戦争加害を描くこと

前作『野火』のように、海外の戦場を舞台にした直接的な戦争加害描写は無いのですが、登場人物の台詞の中に「加害の記憶」が登場し、それは「記憶」に留まらず、戦争の癒えぬ傷、許されざる理不尽として、物語を動かす原動力となります。

ただ悲惨なものとして戦争を描くのでは無く、その裏にある暴力の構造や背景にまで想像力を巡らすことができるよう考え抜かれているのが塚本監督の作品の強みに思います。

(3)「労働」の重みを描くこと

知らぬ者同士が集まり疑似家族を形成し、極限の中でも生活の形ができてくること。(自然と性別に偏らない家事負担を描けていたことも含め)いつ壊れるとも分からない中での日々の営みの尊さが描けていたと思います。

また、焼け野原を彷徨い、危険を伴う非合法な食い扶持が蔓延していた中でも、ある登場人物は、非合法では無い、日々の営みの延長線上の労働に食らいつき、対価を得て、他の人が生産した物の価値も学んでいきます。

それは排他的かつ浅薄な「働いている者じゃないと価値が無い」というメッセージでは無く、日々の家事や望まない形での労働、望んでいるがリスクを強いられる労働、そして様々な理由で働けない人の生も折り重なる形で、全ての人が、何らかの形で支え合う社会が望ましいということを伝えたかったのではないでしょうか。

同時に、戦争という人々の血を富に変える「ビジネス」や、ボタン一つで世界中のあらゆる物資(そこには明日生きられるかギリギリの人々の必需品も含まれているかもしれません)を囲い込み、富に釣り上げる行為への怒りでもあるかもしれません。

(4)敢えての課題点(ネタバレあり)

本作品に対して敢えて「こうしてほしかった」という点を挙げるとすれば、終盤で、性病にかかった女性が、戦争孤児に、「(病気の影響で)顔を見られたくないの」と叫び、扉を閉めたまま、疑似家族の日々が愛おしく尊かったこと、非合法かつ危険ではない労働で生きるよう説くシーンがあります。

このシーン自体は素晴らしいのですが、扉は開けてもよかったのではないかと思うのです。

望まない形での危険な労働で病になり、見せるのに抵抗感がある外面になってしまったのは事実でしょうが、女性がその労働をするために「家」にいなければ、偶発的な孤児や元兵士との出会いも無く、家族的な営みも、孤児の成長も無かった訳です。

混乱のさなか、折り重なっていく社会の替えの効かない一人として役割を全うしたということで(悲惨なことを安易に美化するべきではありませんが)その証として堂々と顔を見せてもよかったとは思います。

また昔も今も、様々な構造によりセックスワークがリスクを伴う労働になっているのは事実でしょうが、あまりに危険性や「望まない労働」という面を(直接的でなくても)強調することは、職業への偏見に繋がることもあるでしょう。本作品の終盤シーンがただちに偏見に繋がっているとはもちろん思いませんが、どこでどのシーンが偏見に繋がるのか、ということへの想像力は忘れられがちでもある故、作り手も受け手も当事者の声を聞き、考え続けるべきことだと思います。

(5)最後に

焼け野原と偶発的な出会いから家族的になっていく関係……『ほかげ』は大ヒット作『ゴジラー1.0』と一定の要素では共通点を持っていますが、その要素を顕微鏡で見て、より人々の日々の生活の細部を描き切っていると思います。

そして台詞や演出から、直接的で無くとも、確かに起きたし、広範囲に悲惨な影響を与えたし、しかし影響の全容は未だ(隠されたこともあり)解明されておらず、今も世界中で起き、次いつどこでどのように起きるか分からない戦争というものの蠢きを照射することを成し遂げたのではないでしょうか。






この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?