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異質なものどうしをつなげること

 共感覚をお持ちのフォロワーさんからうかがったことです。共感覚を持った人のなかには、「異質なものどうしをつなげること」に長けている人がいることを複数の文献で読まれたそうなのです。私は絶対音感を持っていますが、思い当たります。私は確かに、異質なものに共通のなにかを見いだすことに長けています。数学の研究というのは、まさにそうでした。一見、違うもののなかに、同じようなものを見つけてつなげる。それこそが、新しい発見につながるのでした。やはり私に最も向いていたものは「数学の研究」でした。

 大学院時代の私の指導教官の先生は、とても守備範囲の広い先生でしたが、根本にある研究の動機は「組みひも」であると考えられました。たとえば、n次の組みひも群は、n個の点の配置空間の基本群であると考えられます。(すでにもう意味不明だと思いますが、どうぞ気にせずにお読みください。)この発想自体がはなはだトポロジカルですが、2次元の円板上のn個の点の配置ですから、2n次元のユークリッド空間になると考えられますが、そこまで単純ではありません。それらの点どうしは、重なることができないのです。組みひもとか結び目とかいうものは、ひもとひもが通り抜けられたら意味がありません。そこで、それらの配置空間では、2点の重なる部分、すなわち対角線集合を除いてあります。それらは、ユークリッド空間のなかの、低い次元のユークリッド空間です。すなわち、これは超平面配置の問題になります。セミナーの同輩で、超平面配置を専門に研究している仲間がいました。その先生の興味関心が超平面配置にも向かうのは、そういった背景があると考えられます。こういうのも、一種の「本質の見抜き」だと言えるでしょう。ちなみに、超平面配置の初歩で、3次元空間内の2次元空間(空間内の平面)を考えるというものがあります。教員だった10年以上前に、私は、中学生向けに「3枚の平面によって空間は最大でいくつの部分に分割されますか」という問いと、「4枚の平面によって空間は最大でいくつの部分に分割されますか」という問いを出しました。後者は、なかなかあてずっぽうでも当たらないものです。そして、「以下は数列を習った高校生向けです」と断って「n枚の平面によって空間は最大でいくつの部分に分割されますか」という問いを出しました。ずっとのち、教員でなくなってから、2019年の東工大の大学入試で、この問いは出たことがわかりました。多くの予備校がびっくりしたみたいで、いわゆるカリスマ塾講師が真剣に頭を悩ましたようです。2019年の大学入試の数学の問題で最も難しかったのがこの東工大の第4問だと言っている予備校講師もいます。以下にリンクをはりますがご覧になる必要はございません。受験業界ってその程度なのです。


 数日前に記事にしました、1-ベッチ数というのも、きちんと修行をしたら、理学部数学科の学生が学部3年くらいで習う本格的な概念になります。ホモロジーとかコホモロジーとか言われるものです。ただし、これも直感的には明らかな概念で、「1-ベッチ数」は「窓の数」です。「0」や「6」や「9」には丸い窓がひとつあります。「8」や「B」や「日」には窓が2つあります。「1」や「2」や「3」にはひとつも窓がありません。これを1-ベッチ数というのでありまして、1-ホモロジーのランクです。しかし、これが2-ホモロジーになると「部屋の数」になり、3次以上のホモロジーはもう「見えなく」なります。だからこういう概念が必要になるのですが、きちんと言おうとしたら、かなり難しくなるわけです。

 「多様体」という概念があります。だいたい局所的にユークリッド空間と位相同型な空間のことを言うのですが、「論理的な記事」って、多様体みたいだな、と思うことがあります。一部の聖書の言葉を読んで説教する牧師も同様です。「そこだけ取り出したらとても論理的」。しかし、全体に引き延ばしたら果たして全体も理路整然としているのかどうかはわかりません。メビウスの帯も、一部だけ見るとただの紙で、全体を見ると不思議な形をしているという例ではいかがでしょうか。私の記事も同様で「その場所だけ取り出したら理路整然としている」という記事を書いていると思います。この「論理的な記事と多様体」の関連を見いだすのも、異なるものに共通のものを見いだす能力の表れだと言うこともできます。(自分をほめているわけではありませんよ。こんなのはほめたうちには入りません。)

 改正障害者差別解消法で、民間の企業でも「合理的配慮」が義務化されます。しかし、この「合理的配慮」というものも、伝えることが困難というか、なかなか伝わりにくいものです。その意味で「伴走型支援」に似ています。私が「合理的配慮」を理解していてもあまり意味はなく、私を雇用する側が理解していなければならないのですが、とにかく伝わりにくい。わかる人にはスッとわかるのですけど。「合理的配慮」で検索しても、とてもわかりにくい説明しかヒットしないでしょう。私の算数・数学の個人指導は「問題解決型」というより「伴走型」と言っていますが、これも「問題解決してくれないのかよ」と言われるとそれは違うので、やはり伝わりにくいです。何人かの人にホームぺージ作成を依頼してみましたが、多くの人にはピンとこないようです。ただし、ひとり、非常にピンときているかたがおられ、その人には私の言いたいことがツーカーと伝わっています。伝わる人には伝わる。そのかたにはほんとうに感謝しています。

 同様のものに「悪人正機説」とか「信仰義認論」と言ったものがあります。私のなかではこれらは最初から同じものであり、「自分の努力によるものではない」という意味です。「むしのよさ」とも言います。しかし、これらもうまく伝わらない。立派な牧師が「ひとは行いによってではなく!」と声高らかに言っていても、その人がおそらく本質は理解していないであろうことは手に取るようにわかるものです。ただし、私は「理解力は高いが説明力が低い」人間ですので、「わからない人にわかるように説明する」ことは極端に困難なのです(それができるくらいならこんなに困っていません)。ですから、賢くない人のあいだに行ってはいけません。バカにされて叱られて、また仕事を辞めさせられるだけです。これらの説明が困難であることは、親鸞自身の著作である『教行信証』を見るとわかります。私は学生時代にこれにトライしたのです。挫折しました。あまりの難しさに、です。かろうじて「教」と「行」と「信」と「証」から成り立っているから『教行信証』というのだということを理解した程度です(そしてそれらの分量は4等分ではなく、かなり偏りがある)。とにかく親鸞の教えは「念仏を唱えれば極楽往生する」というだけのシンプルなものでありながら、親鸞自身が理論武装しようとすると、こんなに難解になるのです。同様なものにカール・バルトの『ローマ書講解』というものがあり、これまた私は読んでいないのに語っているのですが、極めて難しいことで有名な本です。パウロの書いた新約聖書の「ローマの信徒への手紙」の説明です。ローマ書の説明は、ルターも書いており、内村鑑三も書いています。しかし、それらはパウロの言いたいことのシンプルさに反比例するように難しいものです。(もう少しやさしく読めるものとして松本志郎『永遠の命』という本があります。「信仰義認論」を徹底的にやさしく書いた奇跡の書!(笑)非売品なので売っていません。入手なさりたいかたは「東八幡キリスト教会」にお問い合わせください。千円プラス送料でご入手いただけます。売り上げはすべて慈善活動に寄付になります。)とにかく説明しようとすると極めて難しくなるところまで共通しています。以下は東八幡キリスト教会のリンクです。

https://www.higashiyahata.info/


 土居健郎の『「甘え」の構造』。これも、言いたいことははっきりしていますが、これと奥田知志さんの『「助けて」と言える国へ』の共通するところは、2年近く前に私は記事にしました。こういう能力なら私はあるのです。いずれも根本に「他力本願」のあるところが共通しています。私のなかではすべてつながっています。私の記事はどれも同じことを言っているのに過ぎません。土居健郎さんが存命なさっていたら、奥田さんとの対談が見てみたかったなあ。いまこそ土居健郎の再評価されるときだと思うのですが、おととし(生誕100年)も去年(『「甘え」の構造』刊行50年)も何も起きませんでした。どうりで宗教はすたれるわけです。

 「立憲主義」もちゃんと理解している人は少ないと思います。どうもいっときの流行り言葉で終わってしまった。「合理的配慮」という言葉も、これからどのように日本社会に根付いていくのか、いかないのか、注視せねばなりません。「立憲主義」については、伊藤真さんの講演で、私は最後に質問しました。「権力者の権力をけん制して、われわれ一般人の自由や権利を守るものが憲法だと聞きました。ならば、三権分立というのも、権力というのは1箇所に集まっていると腐敗するので、せめて3つにわけるということでしょうか。あるいいは、地方自治もその趣旨でしょうか」と言いました。伊藤さんは「たいへんいい質問をいただきました。その通りです」と言い、加えて「二院制」も言いました(国会が衆議院と参議院に分かれていること)。これも、多数派(強者)から少数派(弱者)を守る思想であるため、強者の側にいる限り見えにくいものであり、したがって憲法を理解している人はかなり少ないです。私には、どの人がどの程度の理解なのか、手に取るようにわかりますが、「理解力は高いが説明力が弱い」私には、わかっていない人に説明するだけの力量がありません。あればこんなに困っていません。

 というわけで、私にはかなり「本質を理解する能力」があるようです。しかし、たとえば「ゆうパックの出しかた」みたいなのは理解できなかったりして「お前そんなこともわからないのか!」と職場で叱責を受けることはしばしばです。しばしばすぎて、仕事を2年も休むはめになった挙句、辞めねばならなくなりました。やはり私にとって必要なのは「フランシスコの平和の祈り」の逆です。「理解するよりも、理解されることを」!!

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