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「『なぜ数学を勉強するのですか』と生徒から聞かれたらあなたはどう答えますか」という問い

 2005年、中高の教員の就職活動をしていた私が、複数の学校の論述試験で聞かれた問いが「『なぜ数学を勉強するのですか』と生徒から聞かれたらあなたはどう答えますか」という問いでした。それから16年くらいが過ぎて、いま思うことを3つ、書きます。

 1つ目は、この16年間、そのような問いは、生徒さんから一度も聞かれたことがないこと!この問いは、教員のあいだでの「架空の問い」なのではないか、という気がしてきます。たとえば、福祉の人に向かって「あなたがたのやっていることは偽善ではないか」と実際に聞いてくる人はまれであるのと同様で、実際にこの問いを聞いてくる生徒さんというのはまれなのでしょう。少なくとも私は1度も経験がありません。(学校の水準にもよるのかな?私の勤めていた学校では「テストで出るから」という絶対的な「答え」があった気がします。)

 2つ目は、この問いは「結論ありき」だということです。この問いへの答えの最後は「だから数学は勉強すべきなのです」と結ばねばならない、という暗黙の前提があったと思います。しかし、「結論ありき」というのは学問ではありません。少なくとも「数学的」ではまったくありません。当時、私は29歳の、大学院博士課程の学生でした。まだ、はっきり「学問のまっただなか」にいた時期です。いまよりさらにずっと「学問的」な場にいたことになります。私が違和感を覚えたのも当然だと言えるでしょう。当時はこれが言葉にならなかったとしても。

 3つ目は、この問いは、「問うている人は本気だ」という点です。この「問うている人の本気度」を無視して、この問いに安直に答えるわけにはいかないのです。あるとき、あるクリスチャンでない仲間で、勉強のために口語訳聖書をすべて読んだことがあるという人から、以下のような質問を受けました。「パウロは『党派心はいけません』と言うのに、なぜペテロと党派心を起こすのですか」。私はつい、かなり気軽に答えようとしました。「パウロも人間であって、人間は言っていることとやっていることがしばしば食い違うものです」と。しかし、よく考えて、その答えを撤回しました。その人は、「かなり本気で問うている」のです。単に聖書の揚げ足を取ろうとしている人ではなく、「本気で問うている」のです。「なぜ数学を勉強するのですか」という問いも同様だと思います。

 最近「マーケティングにおける『ドリルと穴のたとえ』」というのを知りました。「ドリルが欲しいです。ドリルありませんか」と言っているお客さんの本当の願望は「ドリルが欲しい」ではなく「穴をあけたい」である、という発想です。売る側の視点からではなく買う側の視点から見るべきだ、というたとえだと思います。ここで言うと「なぜ数学を勉強するのですか」という問いは「ドリル」です。本当にその質問をしたい人の「穴」はなんなのか。そこまで考えて答えねばならない質問なので、そう簡単に答えてはならないのです。それは不誠実だということになるでしょう。

 という3つの点でした。そもそもこの問いを聞いてくる人はいなかったからねえ!

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