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日本でキリスト教が衰退している本当の理由

 深夜に極論を書いています。うまく書けるかどうかわかりませんが、書いてみます。また、文中に、土居健郎または奥田知志牧師の言葉を引用すると思いますが、すべて、(文献にあたるのでなく)記憶に頼っています。これもご了承くださいませ。

 土居健郎は、1920年生まれ。今年(2020年)、生誕百年です。土居健郎は、1971年に、有名な『「甘え」の構造』を書きました。いまの時点で、この半世紀前の本を読んで気がつくことは、土居健郎は、決して「甘え」という言葉を、悪い意味で使っていない、という事実です。1971年の時点で、「甘え」という言葉は、いい意味の言葉でもなければ、悪い意味の言葉でもなかったようなのです。(いまと比べて、ですが。)

 しかし、この半世紀のあいだ、日本社会では、ひたすら、「甘え」という言葉は、悪い意味の言葉になっていきました。土居健郎の言い方を借りると、「近ごろの学生は甘えている」というような言い方は、明らかに「甘え」という言葉を悪い意味で用いています。しかし、人間は、「甘え」なくしては生きられないのです。現在の私もそうですが、ひとに甘え、スマホに依存し(「依存する」ことも甘えの一種だと思います。「スマホ依存」という言葉が悪い意味で用いられるのでもわかるとおり、「依存」も悪い意味の言葉になっています)、どうにか生きています。なんでこんなに日本は、甘えをゆるさない社会になってしまったのでしょうか。

 土居健郎はカトリックの信仰者です。若いころの信仰の遍歴は、『信仰と「甘え」(増補版)』に詳しいです。土居健郎は、「祈り」とはすなわち「神への甘え」であることを見抜いています。いくつか土居健郎が挙げている例を出しますと、例えば「求めなさい。そうすれば与えられる」というイエスの言葉は、神様には、欲しいものをなんでもねだってよいのだ、ということ、すなわち神様に甘えるべきことを、イエスがすすめている、と土居健郎は読んでいます。もちろん、神様は、厳しいかたですから、こちらの思ったように甘えさせてくれないことも土居はきちんと指摘しています。

 また、イエスが教えた主の祈りの一節、「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」については、試練を乗り越えられるように祈れと主は言ったのではなく、そもそも試練にあわせないでくださいと祈れと主は言ったのであって、かなり「むし」がいいことも土居健郎は指摘しています。もちろん主の祈りのすべてが甘えでできているわけではないことも、きちんと土居健郎は指摘していますが。

 そして、イエス自身の神への甘え。ゲツセマネの祈りも、かなり、神への甘えが出ています。(いまちょっと私が思ったんですけど、このときイエスは、ペトロたち弟子にもちょっと甘えていますよね?) そして十字架上のイエスの言葉。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。イエスは神に甘えています。これは土居健郎の指摘でもあり、奥田知志牧師の指摘でもあります。

 再び土居健郎の指摘に戻りますと、このように、甘える心がなければ、祈ることもできない。私たち、あれこれお祈りしますけど、これらって、土居が指摘するように、すべて、神への甘えであることに、お気づきになりませんでしょうか?そして、土居健郎は、決して悪い意味で「甘え」という言葉を使う人ではないのです。「絶えず祈りなさい」というくらいですから、「絶えず神様に甘えましょう」なのです。

 教会というところは、「甘え」が満ちています。信徒は牧師に甘えており、また、信徒どうしでも、甘えあっています。教会って、甘えの満ちた世界なのです。

 土居健郎は、西洋でキリスト教が衰退しているのは、近代化した社会が、甘えをゆるさなくなってきているからであることも指摘しています。甘える心なくしては、祈ることすらできないのですから。

 ということは…。

 日本も、この数十年で、どんどん西洋の諸国にならって、甘えを排除してきました。奥田知志牧師がしきりに強調なさることですが、「助けてください」と言えない人が増えています。奥田知志牧師によると、いまや子どもの自殺の原因の6割は、「原因不明」だそうです。つまり、なんのSOSも出さずに、ある日、子どもは、ポーンといっちゃうのです。土居健郎も、晩年は、子どもの、いじめによる自殺について、しきりに言及しています。土居健郎の子どもの頃、昭和一桁の時代もたしかにいじめはあったけど、こんなに深刻じゃなかったって。自殺するような子どもは、いなかったって。いまは、土居健郎の心配をさらに進めて、子どもの自殺の原因の第一は、「原因不明」になっています。

 「甘え」のゆるされない世の中になってきているのです。「助けて」って言うのって、甘えじゃないですか。また、奥田知志牧師がよく言う、ここ数十年でよく使われるようになった言葉、「自己責任」。これも要するに「甘えるな」という社会の構図を表しています。「甘え」というのは、人と人をつなぐ、潤滑油のような役割をもっていますが、「自己責任」という言葉は、人と人のつながりを、ぶったぎっていきます。「すべてお前の責任だ。われわれは関係ない。甘えるな!」というわけです。

 日本でキリスト教が衰退している本当の理由は、それでしょう。「甘え」は、悪いことになってしまったのです。ぐちを言うこと(ぐちを言うことも、甘えることです)も、よろしくないことになってしまったのです。子どもたちも、「自分のことは自分でしましょう」「人に迷惑をかけてはいけません」と言われて育ちます。「困っている人がいたら助けてあげましょう」とは教わりますが、「困っているときは、助けてもらいましょう」とは教わりません。「甘えは悪」という価値観になっていきます。結局、だれにも甘えられない大人になっていくのです。

 こんなにSNSが発達し、いろいろなツールで、人と人がつながれるようになっていっているように見えますが、じつはみんな、孤立していっているのです。みんな、傷つくのが嫌なのです。でも人間関係というものは、まったく傷つかない、まったく傷つけない、ということはありえないので、傷つきたくなければ、縁を切るしかなくなります。それで、日本社会は、こんなに孤立社会になってしまったのです。

 ここまで書いてくれば、日本でなぜキリスト教が衰退していっているのか、理由は、おのずと明らかであるように思われます。「甘え」の欠如です。晩年の土居健郎も案じていました。奥田知志牧師も非常に危機意識をもっておられるように見えます。ここまでくると、たんに、日本でキリスト教が衰退する理由を論じている場合ではなくて、日本社会のかかえている本質的な問題にぶちあたっている気もします。

 このことに気がついている人が、まさか私ひとりではないわけでして、熊谷晋一郎さんとか、いろいろ、福祉の最先端の人も、このことに気づいておられます。みなさん、困っているときには、助けてと言いましょう。私も言いますから。そのときは私を助けてください。

 というわけで、日本の教会は、なぜ、最近、教会に若い人が来ないのか、などと悠長なことを言っている場合ではないのでして、もっと真剣に、日本社会から、「甘え」を取り戻しましょう。

 今日は、このへんまでです。ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

 





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