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論理ってなんだろう。主観?

 最近、フォローしてくださるかたがたくさんいます。いろいろな思想や信条の人がいて、おもしろいです。それぞれの人がそれぞれの論理で記事を書いておられます。それを見るにつけ、「論理ってなんだろう」と思います。

 たとえば、キリスト教という宗教。もしもこれが「完全な論理」でできていたら、世の中は100%の人がキリスト信者になっていてもおかしくないわけです。でもそうはなりません。原発推進のかたと、脱原発のかたと、両方ともいます。それぞれの論理があるわけであって、どちらかがどちらかに「論破」されるわけではありません。音楽鑑賞の好きなかたで、「最後は必ずレコードに行きつく」とおっしゃるかたもおられますが、必ずしもみんなが最後はレコードに行きつくわけでもありません。

 数学を教えていても思います。「論理的に教える」と言っても限度はあるはずです。中学生の教科書を見てみれば、そこには「中学生なりの論理」が書かれているだけです。どうしても「雰囲気で教えている」面があることは否定できません。まったく「空気で教える」要素をなくして、「100%、論理で教える」ことなど不可能なのではないか。私自身が「こんな感じ」とか「なんとなくわかった?」という言いかたをついしてしまうのです。いくら私が論理の人間だと言っても、やはり物事を「空気で」伝えているには違いないのです。「当たり前」の連続で数学はできていますが、「なにをもって『当たり前』というのか」というのは、時代にもよるし、どうしても個人差があると思ってしまいます。

 世の中に「微分・積分」を理解している人はどれくらいいるのでしょうか。いや、「どの程度の理解度か」と言うべきものかもしれませんね。かつて「微分」は「微かに分かる」、「積分」は「分かった積もり」という冗談を言う人がいましたが、そんな感じかもしれません。東大の物理の院を出ている仲間の結婚式に呼ばれた翌日の朝、新郎の彼に「タンジェントを微分したら何になる?」と聞いたら「え?タンジェントって微分できるんだっけ?」と言っていました(もちろんタンジェントは微分できます。忘れているものですよね。当時、院生だった私も答えられませんでしたもの。自慢にもなりませんが)。

 紀元前のギリシアで書かれたユークリッドの『原論』。こんな仕事になるなら読んでおいたところですが、学生時代の私はこれをあらためて読んだことはありません。しかし、そこに書いてあることは知っています。あらゆることを論理的に構成しようとした古代の賢人。しかし、どうしても最初に「公準」を置かねばなりませんでした。「これだけは『当たり前』だと思って認めてください」というものです。「異なる2点を通る直線はただ1つである」ことなどですね。どうしても「最初にこれだけは『当たり前だ』と認めてください」というものを置かざるを得なかった。(最初に非ユークリッド幾何学の存在を知っていた人は、ほかならないユークリッドではないかという気さえしますね。)

 「辞書」ってなんでしょうね。言葉で言葉が説明してあります。小学生のころ「ややもすると」という言葉がわからなくて辞書を引いたら「ともすると」「ともすれば」と書いてあり、「ともすると」を引いてみると「ややもすると」「ややもすれば」と書いてあり、ぐるぐるまわりになっていてついにわからなかった、という経験があります。「言葉は生き物だ」と言います。言葉の定義は変わるからですね。しかし、それを言うと、数学も生き物なのではないか?長い時代のなかでは、数学も変わって来ています。急に卑近な例を出しますと、文科省の学習指導要領がだいたい10年くらいで変わっていきます。こういうnoteの記事も、何十年後かには陳腐なものですかね?だいたい、何十年か前の本を読んだら、(すべてではないですけど多くが)だいたい陳腐に感じられますしね。

 「こんなことも言われないとわからないのか!」と言ってくる人には、私の置かれている状況が「わからない」。「わからない」どうしのお互い様ではないか。

 私のできないことで「叱ってくる」人には、きちんと反論できるように考えてありますが、そもそも叱ってくる時点で私は信用されていないのです。反論を述べなければならない時点でもうすでに疑われているのです。私を受け入れてくださるかたは、そもそも「叱って来ない」ことがほとんどだということにだんだん気づいてきました。つまり、論理より大切なのが、なさけ。

(以下に私の記事「「論破」より「なさけ」」をはります。律儀にお読みになる必要はございません。)


 私の固定記事をお読みになって、スッとわかってくださるかたと、まったく理解なさらないかたといます。まったく理解なさらない人のつもりになって、自分で自分の固定記事を読み返してみると、あれまあ、確かにまったくちんぷんかんぷんだ。この私のどこが「論理的」なのだ?

 とにかくキリスト教にせよどんな主義主張にせよ、微分積分にしても、ほんとうは「論理」だけではない気がするのですね。正確には「100%論理ではない。少しは『空気を読む』という要素がある」ということになりますけど。

 ほんとに、「論理的」ってなんでしょうね。「主観」ですかね?

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