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クリスチャンは十円玉を使ってもいいのか

イエスを陥れようとするために遣わされた人が来て、イエスに言います。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」(新約聖書マルコによる福音書12章13節以下)。この質問は、以下のような問いを想起させます。「富士登山は聖書に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。富士山の頂上には神社があり、その神社にお参りすることを富士登山と言うのですが」。あるいは「新幹線に乗っていて、富士山が見えたら喜んでスマホで写真を撮るのは偶像崇拝ですか。富士山はご神体ですが」。2015年、合宿の下見で東山荘に行ったらすごく天気がよく、富士山のよく見える部屋に通されました。「目を上げて山々を仰ぐ」といったもっともらしい聖書の言葉が書いてある部屋でしたが、いや富士山はご神体だから偶像崇拝では?

こういうのはいくらでもあるわけでして、「クリスチャンはあみだくじをしてもいいのですか。阿弥陀如来ですけど」とか「クリスチャンは雪だるまを作ってもいいのですか。達磨大師ですけど」とか、いろいろあります。私の住む市に「昭和区」という区がありますが、クリスチャンは昭和区に住んでいいのかどうか。昭和とは天皇制元号ですけど。現人神ですけど。私の地元に平成通りという道がありましたが、あれも通ってはダメでしょうな。明治大学に入学するのもダメです。文化の日に休んではダメです、明治天皇の誕生日ですから。昭和の日に休むなどもってのほかです。聖書の翻訳を、明治訳、大正訳と呼ぶのもダメです。もっとも口語訳は昭和訳で、新共同訳が平成訳で、聖書協会共同訳が令和訳ですから、日本聖書協会の聖書の翻訳は、ずっと元号とともに歩んでいますけど。

新年度になり、新しい小学6年生の算数の教科書を見ますと、「対称な図形」という単元であり、線対称な例として、2ページにわたって平等院鳳凰堂の大きな写真が載っています。いわゆる左右対称ですね。いまどきの小学生は平等院鳳凰堂を知らなかったりしますが、「十円玉に書いてあるやつ」というとピンと来たりします。そこで思うのが、十円玉を使うのは偶像崇拝かどうか。十円玉には平等院鳳凰堂が彫られていて、そこには仏像(調べてみると阿弥陀如来でした)がまつられていますけど。

イエスは、デナリオン銀貨を持って来させて、そこに皇帝の肖像と銘があるのを確認させました。皇帝は、自分の肖像と銘をコインに書かせることができるのです。ナゴヤドームは正式にはバンテリンドームと言います。おそらくバンテリンがたくさんお金を出しているものと思われます。たくさんお金を出した会社は、ドームに自社の名前をつけることができて、みんなにバンテリンドームと呼ばせることができます。また、東京にはサントリーホールというクラシック音楽専用ホールがあります。サントリーがたくさんお金を出しているのでしょう。私も学生時代に何度も行きました。世界中のオーケストラが来日して、サントリーホールで演奏しています。大企業はそういうことができるのです。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。この言葉の意味するところは、まだ私にはきちんと言語化できていません。しかし、少なくともイエスが「富士登山は聖書に適っていますか」という類の問いにビシッと答えた場面だ、ということは理解できます。イエスはねらったように安息日に人を癒す人ですからね。統計を取ったことはありませんが。イエスが奇跡的に人を癒す聖書の話で、それが安息日であった日の割合は、おそらく7分の1を超えているでしょう。まあそういう日に当たった場合に話題になるからでしょうけど。

ところで蛇足。「納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」という問いは、二択のように見えて二択ではありません。「納めても納めなくてもよい」という可能性が意図的に除外されています。世の中は「絶対に納めねばならない」と「絶対に納めてはならない」の二択ではないわけです。しかし世の中はこの手の詭弁に満ち溢れています。これは詳しくは高校数学の「ド・モルガンの法則」で習います。これはド・モルガンの法則を破っているのです。それでイエスは「彼らの下心を見抜いて言われた」と書いてあるのです。さすがイエスも賢いと思いますけど、この話を収録した福音書記者マルコも充分に賢いですね!

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