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不登校の息子たちが動く時を「待つ」ことの意味。



思春期の息子二人が不登校になり、もうすぐ三年。私はその間ずっと、彼らが動き出すのを待っている。この、「待つ」ということについて、不登校初期と、三年後の今とでは自分の姿勢が変わってきているなと思った。

不登校初期の荒れていた時は、彼らの気持ちが落ち着くのをただただ待っていた。普通に会話ができるまでかなり長く時間がかかったけれど、とにかく時が過ぎるのを待った。 


以前より落ち着いた今は、彼らが自分の将来のために動くことを待っている。

でも私はこの、「待つ」というものに違和感が出てきていて、それもやはり、私が今になり親に反抗して初めて感じたことだった。

私の親は、豹変して反発する娘の私が、以前のように従順で素直な娘に戻ることをどこかで待っているように思えるから、これを、私が息子たちに対してやっている「待つ」だとしたら、それは違うんだろうな、という感じがする。

親に、私の過去の従順で素直な姿を美化されて、そこに戻ることを「待たれている」のだとしたら、それは「待っても無駄だよ。それは本当の私じゃないんだから」ということになり、息子たちもまた親である私に同じことを言うだろうな、と勝手に想像していた。



息子たちが動き出すのを待つことは、私の一方的なプレッシャーのように思えて、待つのではなく、彼ららしく生きることを信じるようにしようと思い、とはいえ、心配なことは次から次に日常にあふれていて、それと格闘しているうちに日が暮れる毎日から早く抜け出したくなると、何とか前を向いて動き出してほしい、と期待を込めてつい待ってしまう。うっかりその期待のビームを出さないように一生懸命気をつけている。





待つことは難しい。待たれることも難しい。「まつわ」の歌はちょっとこわい。

とりあえず今は軽やかにありたい。










アメブロでは日々の日記を書いてますが、こちらではひとつのテーマについて書いていこうと思います。

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