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してあげることと、してもらうこと。

どこまでしてあげる?してもらう?

一人暮らしのオカンがスマホを機種変したと聞くと、気が重い。70代にしてスマホ使いこなしてること自体は偉いと思うが、しばらくLINEで、電話で、質問の嵐。

変なとこ押しちゃって画面が戻らない、ローマ字/かなの切り替えがわからない、挙句にはパスワード忘れた、どうしよう?どうしたらいい?
「まずは自分で検索しなよ、何のためにスマホにしたの!」
ついつい語気も荒くなる。

電車で1時間弱の距離に住んでいるのだし、さっさと駆けつけてあげたい気持ちもあるが(実際その方が早く済む)、こっちだって仕事もあるし、何より「呼べば、いつでも来てくれる」という前例を作るのが、怖い。
そのほかの面倒ごと、あれもこれも、「全部やってー!」と覆いかぶさってくるのが目に見えている。下手に甘やかすより、「アテにならない、ちょっとクールな娘」でいた方がお互いのためなのだ。

ほっとくと、友達に聞いたり、携帯のショップに行って解決したり、自力でけっこう逞しくやってるし。

そんな感じで「やれやれ、全くシニアってのは」と余裕で構えていたが、近ごろ自分もだいぶ危うい。
例えばオンラインのツール。知らぬ間に、未知のソフトが主流になっていて、「わ、わからない」と頭を抱えることも増えてきた。恥をしのんで、若者に教えてもらうしかない局面も。
例えば、健康状態。
大きい持病はまだないものの、体調不良の波には見舞われるようになった。去年は、人生初の車椅子まで体験。こんな時、看護師さんの優しさ、頼もしさが、涙が出るほど身に沁みる。
「してもらえるって、ありがたいなぁ…」
感謝と同時に、これから、もっと人にお世話になる局面も出てくるのだなという予感が頭を掠める。

50代、気負わずに、してあげる/してもらう関係を自分のものにする必要性を感じてる。

「完全なフィフティフィフティなど、この世に存在しない」


全員がきちんと自立していて、いつも公平平等、が良いのか?というと。
フィフティフィフティじゃない豊かさってあるな、と思う。
仲良くなりたい人には、きっかけに小さな貸しを作る(本を貸したり、ご馳走したり)、なんて心理テクもあるぐらいで。

実際、スマホのことで母から連絡があってイライラしていた時も、世間話をしているうち、逆にこちらが愚痴や悩みを聞いてもらう展開となり、気持ちが軽くなることもしばしばあった。

ツルッツルの50:50でなく、関係性にデコとボコがあることで、フックのように歯車が噛み合い、回って、深まるものがある。

どこまでしてあげるのか?どこから、してほしいと頼むのか?ベストバランスは、自分で作り上げていくしかない。

親子だから、夫婦だから、親友だから、大事な仕事相手だから…
「愛があればできるはず」「感謝が足りてないのかも」なんて自分を責めて、無制限になんでもしてあげる必要なんてないし、「してくれて当然」と居直るのも違う。
前例やら常識の中に、正解はないんだ。


「のに」ルール

私が編み出したルールは、これ。
語尾に「のに」が出ない範囲で、というガイドライン。

あんなにしてあげた「のに」
以前は、してくれた「のに」

仕事とプライベートを問わず、語尾に「のに」が出現しはじめたら、要注意だと思っている。それは、純粋な好意や親切であったものが、甘えや依存に変化し始めるサインかもしれない。
単純に、心の距離が近すぎる場合もある。

「ちょっと、背負い過ぎてるかな?」「あれっ、甘えすぎちゃったかな?」

少し自分に問いかけることで、また良い距離感に戻れる。
NOを言っても、言われても双方気にしない、堂々と心地よくもたれあう関係でいられたら。

この先、親も周囲も弱ってくるだろうし、こちらもますます頼りなくなる。
ルールもへったくれもない世界に突入する予感に怯えつつ、デコとボコが噛み合って、気持ちよく回る世界を目指していきたい。
読んで、リアクションいただけたら嬉しい「のに」…という気持ちを押し隠しつつ!

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