「ウソつくなよ、NHK。」って思った。小学3年の頃に。ブッシュはイラクに攻め込んだ。

小学2年の6月、僕は4年ぶりに日本の土を踏んだ。6月の日本は肌寒くて、セーターを着て登校したら驚かれた。

周囲からすると、だいぶ変わった転校生だったようだ。
セーター着てくるし、自己紹介では「好きな食べ物はマンゴーです!」と言うし、何よりランドセルを持っておらずリュックだった。
が、周囲と自分の間の大きなギャップにすぐには気づかなかった。

学校で何があったかはさておき。僕はなぜセーターを着ていたのか。

それは、僕が数日前までUAEに住んでいたからだ。
UAEの日本人学校の遠足は、砂漠遠足。砂漠しか行くところないからね。直射日光で50℃の気温に耐えてきた。

中東の生活は、暑かった。そして、ゆとりがあった。時間の流れ、街の道路の幅、人の距離感。

日が沈み涼しい風が頬をすべる頃、男の人の美しい声がメロディを奏で、心のスイッチを夜モードに切り替えてくれる。
一年中乾燥した中東の空は月や星をパキッと輝かせ、砂の舞う地平線に沈む夕日の燃えるような赤は、天頂の夕空の群青とコントラストをなして毎日が絵画のようだった。

ショッピングモールは、白い壁や柱に、エメラルドグリーンやサファイアのようなガラス模様が装飾され、空調が効いていた。暑い国の人は透明感のある青や緑が好きなようだ。でっぷりとした男の人たちが、モール内のカフェで甘ったるいコーヒーや紅茶を飲みながらのんびりとしている。
酒がない。豚肉がない。そんな違いなど、些細なことのように思える。

牧草こそないけれど、牧歌的だった。日本の方がよほどギスギスしていると僕なんかは思う。

2002年、そんな場所を離れて寒く湿った、狭い日本に戻ってきた。
2003年、イラク戦争が起きた。

テレビは口々に、イラク戦争の報道と共に、イスラムについてなんでも知っているように語った。

コーランがどうとか、ムハンマドがどうとか、フセインの発言がどうだとか。

ムスリムの断食は、「貧しい人たちの気持ちを味わい、共感を忘れず、分け合うことを大事にしましょう」という風習であり教育だ。

それをNHKは「イスラム教徒は、ラマダンを通じて団結力を高めます」とニュースで報道した。

おい、現地には国際政治に詳しい、ジャーナリズムを専攻した選りすぐりの優秀な記者が駐在してるんじゃないのかよ。いい大学を出てNHKの内定を取ったんじゃないのかよ、どこで情報が歪んだんだよ。

現地の人は、人間だ。ショッピングモールで買い物をし、カフェで友達と喋り、仕事の愚痴を言ったり恋に悩んだり、子どもの成長に喜んだりする。

どこに行ったって人間の本質は変わらないし、話せばわかる。

しかしテレビは、その可能性を奪った。僕以外のほとんどの日本人に、怖い存在としてのイスラムを見せた。

メディアが嘘をつくということを知ってしまった。小学3年生にして。

正直な大人もいる。嘘つきの大人もいる。

僕は、大人の言うことを素直に聞くような優等生にはならなかった。
でも一方で、大人に対して常に反骨精神を剥き出した、グレ系にもならなかった。

こいつは信用できる人間なのか。常にジロジロ観察して試すような、実に可愛げのない少年がそこに生まれた。孤独のはじまりだ。

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