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女の功罪は、ありますか?

最近エロいとは何かと考え、
エロいとは2種あるような気がした。

発話者が「エロい」と発した時

性的消費が間接的に含意されているかいないか

作り上げた体の美しさは「エロい」という言葉も賞賛に変わると思う。また、「エロい」という言葉は芸術的な良さをはかることができる褒め言葉なのだと思う。

しかし、発話者が性的消費の意図を強く出しすぎるとたちまちその言葉は恐怖に変わる。最悪な言葉へと転じる。同じ言葉であるのに天と地の差レベルである。

一般的に、肌の露出が高い服やボディラインが出やすいタイトめの服等はいやらしさに結びつけられやすい。

作り上げた綺麗な体というのは、その人の才や努力の集まりでもある。
そういった綺麗なものをよりよく魅せるための手法として、そういった服装は何も悪いものではないと思う。

私はタイトめの服装が割と好きで好んで着ることがある。
でもこういったものを着るときに向けられる視線として、「あなたは性的欲求が強いんだ」などといった消費の「エロい」を望んでいると勝手に決めつけられる視線が送られることがある。これがなんとも苦痛なのだ。
好みの服装であれ避けたり拒んだりしてしまうことがある。こういった誤解の視線に出くわさないために。めんどくさい視線を避けるために一つの自分らしさの表現を削る。毎日選択する表現選択だからこそ、こういったものは積もるとかなりの精神的負担が鬱積してくる。それでも、誤解の視線を向けられるあの気持ち悪さや恐怖に比べればマシなのである。

「え、視線だけで?」「そんな服装するから悪いんじゃん」
なんて言われるが、それほどそういった消費の目の量は多いということだ。体力が失われるほどに、そこに含意されているかどうかは視線だけで伝わってしまうことがあるということだ。

毎日毎日何人にもナンパをされるのがめんどくさくて、スカートをはくのやめ、ズボンばかり好むようになったり、派手めな服を着るのは場所を選んだり。無難無難へと、自分を当てはめようとしてくる。やがてこれは無意識に自分が本当に選びたい選択肢を見えなくしていることも気づかないくらいに当たり前と化してくる。

エロいとは何なのか、エロいとは悪い事ではない
それを強調するような表現の一種もまたひとつの芸術としてくくられる。
人間の体の美しさを打ち出す、好む人が好むひとつのジャンルのような。
ただ、そのジャンルには勘違いしたものが群がりやすい。そういうものだろうか。群がるものは誤解に気付かないことが多い。「僕が望んでいるんだから君も望んでるんでしょ」そんなあたかも暴力的な。

こんなことをつらつらと書いていると見た目の評価とは難しいものだなと思った。良かれと思っていったことが、相手には不快に変わる危険性があるわけだから。

最近は「女性らしさ」「男性らしさ」というプロトタイプに縛られ続ける服装は減ってきたように思える。男性がスカートをはいてもいいし、メイクをしてもいいし、女性はネイルやアクセが義務だなんてことはない。心が望むものを選択し、また見るものがそこに無理にプロトタイプに戻せ、そうじゃないと君がおかしい、君のその心が間違っている、なんて決めつけてくることが、以前よりは減った気がする。

もちろんまだまだ、誤解の視線は多いけど、場所を選んでしまうけど、そういった環境が閉鎖的でもひとつでもあれば、自分の心を悪者にしなくてすむのかな、と思ったりした。受け入れられる人は素晴らしいけど、受け入れにくい人が居たり拒否感が生まれる人がいることも悪い事ではないと思うから。

ただ、エロいという表現はもう少し広く誤解の視線が減ってほしいなと願うばかりだ。女性から見ても女性の体は本当に美しいと思う。その体を持って生まれてきたことは功であり罪ではないのだから。



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