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広く浅くに悩まされた4年間

文系の幅広い分野を勉強できること、所属後に自分の興味分野や専門分野を決定できることに魅力を感じ、私は今の大学、学部、ゼミに所属している。そしてもうすぐ、卒業を迎える。

私はずっと、専門分野を決めること、絞ることは、自分の可能性を狭めることと同じだと思っていた。だから、これまでの私の決定の動機には必ず、「選択肢をなるべく残すこと、つぶしがきくこと」が入っていた。

大学や学部選びも同じような動機で行い、その結果、広く浅く学ぶことができ、希望はかなった。その点に満足している。

一方で、「広く浅く」の弊害にも直面した。具体的には、「何を学んでるの?」の問いに明確に答えられないこと、そしてそれをコンプレックスに感じていたこと。それが就職活動という場で、学業に関する質問にイチイチ神経をすり減らされる結果となり、面接でうまく答えられないこともあった。

でもここ半年ほどでようやく、期待とコンプレックスを同居させた「広く浅く」に対して、こうなんじゃないか、と思うことが出てきた。

そのきっかけは、一つの視点に絞り、卒論を書いたことだった。一つの視点から、複数の対象を調査する中で、ある地域で、幅広い地域の活動にひっぱりだこのAさんとお話をしたとき、「狭く深く」に対する見方が変化した。加えて、その後に街で偶然出会ったアーティストの方と話をしたとき、「狭く深く」が様々な広がりをもたらす結果になるのだと考えるようになった。

Aさんと出会ったのは、卒論のためのインタビューをお願いした時であった。Aさんは、その地域で長い間、新聞配達の仕事をしていた。新聞配達という仕事を深めることで、地域の困りごとや関心ごとが広く見え、Aさんは、それらをうまくつなぎ合わせていった。そのつながりが、現在Aさんの複数の仕事となり、地域の活気となり、大手企業とタイアップをしたり、他地域と繋がったりする結果となった。新聞配達という仕事で、足もとを深めていくことは、広くつながっていく結果となっていた。

自分の足もとや、一つのことやものを深めることは、「深く掘る」ことではなく、「その視点からの広がりが見えるようになること」ではないか。

そう思うようになった。でもこの気づきは、「広く浅く」にこれほどまでに悩まされた結果だとも感じる。

街で偶然出会った高齢のアーティストは、それを「若さと老い」という視点を交えながら語っていたように私は解釈する。

人生の残り時間が多い若いうちは、悩んでいられるけれど、年を取ると、悩んでいる暇はなくなる。だからこそ、一つのことに集中せざるを得ないんだ。だから、若いうちは悩んでもいいんだけどね。

そんなことを語っていた。とても投げやりな言い方かもしれないが、「時が来れば本腰を入れるようになる」とでもいえるのだろうか。でもその言葉で、今の自分を肯定されたような、ほっとしたような気持ちがしたのは確かである。

広く浅くに悩まされた4年間。それは、悩むという時間的な猶予を謳歌した贅沢な4年間であり、その最後の最後に、私は一応の自分なりの答えを持つことができた。だからこれからは、選び取ること、絞ることにそれほど恐怖を抱かなくなりそうである。問題は、選んだあと、「どうするか」なのであるから。



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