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描きたいものと描けるものは違う

提出物を全部出し切ってほわ~となっている今、
なんとなく最近思ったタイトルの件を考えました。

描きたいものは自分の好みや興味に基づいているはずなのに、自分の好みのものが描けない、これの原因はたぶん自分の作品が自身を映す鏡であったり、反対にまったく対極にあるものへのあこがれからくるものであったりします。(ついでに言うと鏡になっているタイプの人は結構危ないです。
自分を追い詰めるのでしんどくなりやすいと思います。
ストイックにのめりこむのはとても気持ちいのですが必ず歪みが来る時があります。波がある人が多いです。)
なんで描きたい絵柄があるのにそういうのが描けないのか、これはただ単に自分の技術や経験という言葉では不十分なように感じます。

なぜそうなのかは人ぞれぞれですが、描けるものについては思うところがあり、個人的には幼少期にどういう経験をしたか、はとても重要だと思います。
満たされていたからいいとか、苦労したからいいとかそういう話ではなく
みずみずしい時に感じた感性というのは人の記憶の中に強く刻まれるためです。認知症の人が昔のことはよく覚えているのに比較的新しい記憶は忘れていってしまうように、わりと今やっていることの根っこにあるものは幼少期に感じていたことから生まれている可能性が高いです。
もしそうだとしたら、できることは限られている一方でそれはかなり強みにもなりうるのではないかと思います。
あの人みたいに描きたいのに自分が望む世界観が出せないとか多くのクリエイターやアーティストがある期間に直面する課題の1つではあると思いますがそれをいい意味でとらえることが大事だと思います。

実際、描きたいものと描けるもののギャップは、ままならない状態を作り出し、クリエイターはそれを埋めるために制作を行います。
そこに自己成長や向上があり、このプロセス自体を楽しんでいる人こそ
表現者として適性があるように思います。
描きたいものを目指す過程で、新しい技術やスキルを学び、自分の表現力を向上させることこそが理想だと思います。

今の自分にあこがれの人のような作品が作れる能力があるかと考えるのはあまり意味がなく、今自分が持っているものは何なのか、もう一回思い返して自分自身のパターンを俯瞰してみることが大事なのかもしれません。
もし何をやってもうまくいかないなら、昔の自分が感じていた世界から物語を構築してみるのもいいかもしれません。
流行りに乗らなければいけないコンテンツクリエイターとしての側面もありますからもちろんそれを追い求めますが、その中にいるからこぞ差別化することの大切さをより知る機会を与えられているように思います。
でもそれは時代に乗った中に自然に沿うものであるべきだと今はそう考えています。

今は忙しいのでここに忘れないように書き記しておこうと思いました。
ではまた(*´ω`*)


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