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世界5分前仮説

備忘録としてのメモ帳を持っているが、
そのアイデアの中からどんな文章を書こうか選定しても
どうしてもいまの気持ちとはフィットせずに、ボツになる。
2週間後の自分は違う。よくあることだ。
半年前の自分なんて他人だ。時間の経過はむごい。

どうやら世界は5分前に作られるらしい。
毎日はそれを繰り返しているだけで、昔の記憶さえも5分前にまた全て用意され直し、刷新され続ける。
32年間ずっと自分自身として歩き続け、自分史を積み上げてきたつもりでも、意外に実際は違うのかもしれない。助けて、頭の良い人たちーーー!!!

https://ja.wikipedia.org/wiki/世界五分前仮説
世界が五分前にそっくりそのままの形で、すべての非実在の過去を住民が「覚えていた」状態で突然出現した、という仮説に論理的不可能性はまったくない。異なる時間に生じた出来事間には、いかなる論理的必然的な結びつきもない。それゆえ、いま起こりつつあることや未来に起こるであろうことが、世界は五分前に始まったという仮説を反駁することはまったくできない。したがって、過去の知識と呼ばれている出来事は過去とは論理的に独立である。そうした知識は、たとえ過去が存在しなかったとしても、理論的にはいまこうであるのと同じであるような現在の内容へと完全に分析可能なのである
— ラッセル "The Analysis of Mind" (1971) pp-159-160: 竹尾 『心の分析』 (1993)

こんな話を、元会社の先輩から聞き、目から鱗が落ちる。
過去→現在→未来という次元で、今まで自分の決断や感情や結果などあらゆることを当てはめて考えてきたのに、まさか…全てが5分前に仕組まれていたことだなんて…にわかに信じがたい。

世の中の作りをそう定義した時に思い浮かぶのは【宗教】の話になる。
浅はかな知識の中で、仏教の思想に通じるものを感じる。
「幸せ」を求めると、嫉妬や自分の思った通りに進まないことへの苛立ちなどを感じざるを得ない。そもそも世の中思い通りにいくものではない、「諸行無常」何も求めない、今ある・そこで手にしているものを享受し、ありがたく思う。「悟り」

仏教を浮かべていると、今度はなんで競争しなきゃいけないんだっけ?と疑問にぶち当たる。悟っていると大人たちに「さとり世代」とか揶揄されたけど。
よく上司も「社会を回す、経済を回す為にお金を使うっていいこと」とか言っていたっけ。そもそも世の中はなるようにしかならないはずなのに、自分でどうにかしよう、できると信じることができると、今度は経済の話になってきたりする。自分たちで経済を回す=世界を作り上げているという気概。

なんの知識もないわたしが到底辿り着ける話ではないけれど、
最近のわたしの頭の中はこんな話で堂々巡りのぐるぐるをしているのだ。
すごーーーく俯瞰してみるときに出てくる宗教や経済の話。
そこで少しずつ理解を深める為に必要になってくる歴史の話。

大きな「何か」によって、ある種の「波」や「渦」が作られる、もしくは自然発生し、そこに無意識のうちに取り込まれるのが私たちだ。
都市伝説のように、地球を転がしている大きな宇宙人が存在していて、
その宇宙人によって、わたしたちは動かされている。無意識なもんだから、全て自分たちの手で作り上げているような気になっている人間だけど、全ては地球上、宇宙上の壮大な歴史の1ページでしかない。
おそらく地球での人間の暮らしなんて、宇宙で作られる歴史バラエティ番組の中ではめちゃくちゃカットされて、15秒程度にまとめられるんだろうな。

よーく世間にイライラするわたしだけど、こんな壮大な俯瞰した話をわたしの小宇宙である脳ミソで考えると、どうでもよくなってくる。

だからこそ、「知識」や「勉強」は必要なのだ。
少しでも生きやすく、自分が歩きやすくするために。
精神衛生を保つと、純粋な、濾過された欲求が見えてくるはずだ。

先輩と話しているとこんな風にどんどん壮大な思考になり、あっという間に日が暮れていた。9時間はくっちゃべっていた私たち。
そんな記憶も5分前に宇宙人に作られたものなのかもしれない。

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