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短編小説:煙

「あっ、そっちのクボタじゃないです」
 ひかえめな声がして、細い指がワークシートの名前欄を指した。
「久保田じゃないの」
「クボタなんですけど、その久保田じゃなくて…、もう一個の方です。窪む方の、ほら、落窪物語の方の」
「おちくぼものがたり」
「古文のやつです」
「こぶん」
「平安時代の、」
「へいあん」
 クボタくんの言うことがよくわからなくて、バカみたいな返事を続けていたら、横から木戸さんが大きな声を出した。
「あー!あれだよね、久保田利伸じゃなくて、窪田正孝の方の窪田ね!」
「ああ、なるほど」
 木戸さんの説明でようやく僕は理解し、名前欄の「久保田」を「窪田」に書き換えた。どうやら、僕の書いた名前が間違っていたらしい。
「歌手じゃなくて俳優の方ってことか。窪田くんもそう言ってくれたら良かったのに」
「はぁ」
 当の窪田くんは、あんまりぴんときていないようだ。どう考えても落窪物語とかよりはわかりやすい気がするけど。
「じゃあ、これで間違いないね。出してくるよ」
 名前を書き換えたワークシートを持って、立ち上がる。
「え、良いの?」
「良いよ、どうせ暇だし」
「ありがとうー!」
 大袈裟に言う木戸さんの隣で、窪田くんは軽く頭を下げた。たかだか教授の研究室にグループワークの課題を出しに行くだけなんだから、感謝の示し方は窪田くんくらいのがちょうど良い。
 ふたりにひらひらと手を降って、教室を出た。

 アクティブラーニングとかなんとか。最近は流行っているらしい。そのためか、大学の講義の多くはペアトークやグループワークがさかんに行われる。今、僕が履修している授業も例外ではなく、なにかとグループでの課題が出されていた。たまたま初回の授業で近くに座っていた僕と木戸さん、窪田くんが同じグループだ。
 声は大きいけれどあんまり何も考えていない木戸さんと、物静かで…、ちょっと嫌な言い方をするとネクラで、基本しゃべらない窪田くん。正直、しんどいメンバーである。でも、グループワークの課題が単位に響くから、頑張るしかない。苦労しながらも、提出期限よりずいぶん早くレポートを書き終えることができた。
 無事に提出を終え、廊下を歩いていると友人の寺井に出くわした。寺井も、僕らと同じ講義を履修している。
「おー、お疲れ」
「お疲れ。寺井もレポート出しに来たの?」
「そうそう。いやー、無事に終わりましたわ」
 寺井はへらへらと笑っている。個人のレポートはいつもギリギリなくせに、グループワークは余裕を持って提出しているあたり、有能な人と同じグループなんだろう。
「そういえば、お前んとこグループ誰がいるの?」
「木戸さんと窪田くん」
「うわ、きっつ」
 ぼそっと言って、寺井は顔をしかめる。
「ほんとだよ」
 木戸さんと窪田くんには悪いが、ここは寺井に同意。
「そっちは?」
「俺んとこはてっしーいるから」
「え、てっしーいるの?最強じゃん」
 ほらやっぱり。優等生と同じグループなんだ。てっしーこと、手嶋さんは、おそらく僕らの学科のなかでいちばん真面目な学生だ。自称貧乏学生でバイトに明け暮れているわりには、授業を休んでいるところなんて見たことがないし、提出物も常に完璧。成績も優秀。ありとあらゆるスケジュールも把握しているので、学科のなかで「困ったらてっしーに尋ねるべし」という風潮がある。そして、嫌な顔ひとつせずに頼まれたことは引き受けてくれる。そのせいかいろんな人に良いように使われていたりして、そこは不憫だけど。
「たぶん、俺のグループがいちばん評価良さそうだわ」
「どうせ、てっしーに全部やらせたんだろ?」
「だから提出役は買って出たんだ」
「サイテーだな」
 寺井は否定せず、ハハッと笑って軽く手を振ると歩き出した。
 やっぱりてっしーは気の毒だ。まあ、僕も同じグループだったらてっしーに丸投げするのかもしれないけど。
 それにしても、バイトと勉強ばっかりやってて、てっしーはちゃんと人生楽しめているんだろうか。なんて。余計なおせっかいを考えてしまう。

 大学を出ると、外は暗くなり始めていた。冬至は過ぎたとはいえ、まだ冬。日が落ちるのは早い。コンビニで晩飯でも買ってさっさと帰ろう。
 コンビニ前の喫煙スペースには、男女が一組。煙草の煙って嫌いなんだよな、と思いながら通り過ぎようとした。
「てかさー、なんなん、落窪物語って」
 ふと、聞いたことのある声がして、思わず歩調を緩めてしまう。
「いや、ウケると思ったんだけどな」
 もうひとつの声も、聞いたことがある。横目でこっそり見ると、やっぱり、喫煙スペースにいたのは、てっしーと窪田くんだった。

 どういう関係?
 見たことのない組み合わせだ。どちらも同じ学科ではあるが、話しているところなんて見たことがない。いや、話していたとしても、誰の眼中にもなかったのかもしれない。そもそも窪田くんがちゃんとしたボリュームでしゃべっているのを初めて見た。なんて情報量の多い瞬間なんだ。
 というか、ふたりが喫煙者なんて知らなかった。

「ウケないでしょ」
「そうなんだよ、ふたりとも落窪物語にぴんときてなくて」
「いや、落窪物語知っててもおもんないよ」
「えー、うそ」
「てか、窪田って落窪物語読んだことあるの?」
「ない。全然知らん」
「もう、なんなの」
 なんてしょうもない会話!
 ふたりの横を通り過ぎながら思う。しょうもないけれど、とにかくしょうもないけれど…、ふたりとも、とても楽しそうだ。
 コンビニに入るとき、もう一度、こっそり横目で見た。
 ふたりとも全然僕に気付いていない。ただ、煙草の煙をくゆらせながら、楽しそうに笑っている。
 僕の全然知らないふたり。僕の全然知らない世界。

 夜空に流れる煙草の煙と、そのなかで笑うふたりを見て、僕はなぜか、とても綺麗だと思ってしまった。

 



※フィクションです。
 たばこ、タバコ、煙草。
 ひらがなでも、カタカナでも、漢字でも、なんだか「絵になる言葉だなあ」と思います。自分は絶対吸わないけど。

 大学時代、喫煙者の同級生とカラオケに行った時のこと。
 吸うって言ってもせいぜい二、三本だろうと思って「喫煙ルームでも良いよ」と言ったら、まさかの一箱全部吸っててぶったまげました。
 たぶんあの時、一生分の副流煙を吸ったと思います。できればもう吸いたくない。

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