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「わたしは絶えず わたしの中に潮鳴りを聞いて」~聞かない、という権利とホワイトノイズ~

わたしが立ち上がると
腕からも 乳房からも ふくらはぎからも
海がしたたる
都会のただなかの
最上階にいるときも
海がしたたる
山岳地方を
一人で旅しているときも
わたしは絶えず わたしの中に
潮鳴りを聞いている

満ち引きを 正確に繰り返すものが
わたしのなかに、あるのだ
魚が泳ぎ飛び跳ねるのだ

時として溺死した男が
朝の渚に漂着するのだ

新川和江「海をうしろへ」より

 高校の時に合唱部に所属していた。華の!女子高だったので、女性合唱。女性合唱で、よかったなと思う。16、17の多感な時期に、こんな詩を歌って、自分のものにすることができたのだから。奥手だった私だから、文字だけだったら、恥ずかしくて見ないふりをしたかもしれない。

 この歌は「女性合唱とピアノのための」海をうしろへ、というタイトルになっているようだ。新川和江の詩に、鈴木輝昭の作曲。女性であることの美しい躍動や対局の倦怠感を孕んで、この詩はとても美しい。

 新川和江の詩で高校時代に歌ったのものには、ほかに「わたしを束ねないで」がある。こちらもピアノの迫力と相まってものすごい破壊力を持った合唱曲だ。女性というジェンダーが負っている霞のように不確かででも確実に重たい、何かを払拭するような。その靄(もや)は、20世紀も、21世紀の今も、何となくわたしたちの胸に居座っている。

 さて、今日の力点はフェミニズム如何ではありません。残念ながら(笑)。今日特にお話したかったのは「聞かないという権利」について、です。

 わたしは耳がいい方だと思う。音声を察知し、特に言語化として変換し意味にするという一連のプロセスにおいて、鋭敏である。こないだの知能検査でもここだけは、尖ってた。

(余談だが、でも処理速度が遅いので、アドリブでその言語能力を発揮しろと言われたらへそで茶ー沸かしそうになる(涙)だから私はそれにすごく劣等感を持ってた。自分が話下手で言語を扱う能力がないんだって否定してた。でも、今回知能検査で自分の能力を客観視してみて、そこを責めなくっていい、ってことがわかった!だって、ゆっくり、自分のスピードで書くことはできる。わたしの発言を待ってくれる人に、正確に、自分の思いを伝えることはできる。待ってくれさえしたら!

 鋭敏な聴覚は、外界の音を有無を言わさず、拾う。だから、わたしの集中力は聴覚を統べることができれば、達成される

 反対に、聴覚的刺激がコントロールできない環境では、わたしに集中という勝利はもたらされない。気の散りやすさが最高に発揮されて、まあそれはそれで収穫もあるのだけれど、でも当初の目的は達成されない。敗北感。

 思い出すと愉しい逸話がある。大学2年生の3カ月の英語のサマープログラム。同級生は3人の日本人と、4人のプエルトリコ人と、4人の台湾人。受け持ってくれたポルトガル語がご専門のアメリカ人の Dr. Lewis(ドクター・ルイス)が、秀逸だった。私達に、お互いの違いを理解し尊重するような機会を、英語学習を通して与えて下さった。わたしは今でも彼のような授業ができたらと思っている。

 さて、三週間の授業のために、彼は仮想の " LewisLandia(ルイスランディア。"-Landia”は、-の王国、の意)を創造した。ホワイトボードと言語を使って、わたしたちの頭の中に。彼は、わたしたち学生の共通の話すべきトピック、を、ファンタジーを使って設定したのだ。ここで私達は領土争いをしたり、侵略者から島を守ったり、ルイス王の不当な要求に反旗を翻したりしたのだが(まぢ楽しいよね!)、中でも最高だったのが、「島で独自に進化した動物を捕まえるポスターを描き、それを口頭で説明する」というものだった。

 わたしはグループの人と、次のようなモンスターを考えた。 

 
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 名前は「Pink Monster」で、ふわふわしたピンクの体をしている。日当たりのいい自然に生息し、宙にホバリングしているが、なかなか見つからず、その生態は謎に包まれているところが多い。一つ、特徴的なのが、耳が随意で動き閉じられるということである。そのため、聞きたくないことは、聞かないようにするらしい。

 ――わたしはこの、自在に閉じられる耳が、ずっと欲しかった。

 1月、AirPodsを買った。家のどこにいて何をしていても、ラインをカットすることなくボリウッド音楽のヒンディー語や好きなpodcastを聴いていたいとの欲求からだった。

 3学期に潜った大学院の発達障害研究の演習で出会った人に、自分の聴覚について話すと、自分もそういうところがあるといって、ホワイトノイズを教えてくれた。ホワイトノイズは、要は「泣いている赤ちゃんにブラウン管テレビのチャンネル設定のないザーーという画面を見せると泣き止む」現象のあの「ザーーー」という音である。妊娠後期の心音を聴いたことのある方は、それが胎児の心音とそれにかかる「ゴーーー」という音と近しいのは、何となく感じられたかと思います。要は、胎児のときにわたしたちが耳にしていたであろう音に近しい音を聞くことで、われわれ人間は子どもも大人も、安心する、ということだと理解しています。

 これを知って、わたしは自由に耳が閉じられるようになった。

 微細な雑音から解放されたわたしの脳は、働く場所の制限から少し、解放された。他にも照明具合や日光の具合、風通しの具合、時に胡坐や正座をしてもオッケーかなど、わたしの脳はpicky(えり好みする、という形容詞)である。そういう環境でしか、集中してくれない彼女。

 "white noise"のなかでも、iTunesのWhite Noiseを好んで聴いている。その中に、"Ocean Breeze White Noise"というのがある。潮騒。満潮の浜辺に立って夕頃、吹き付けてくる風を全身で感じている、あの感じ。

 立ち寄ったお店の隅で、何を書こうか思いを馳せているときに、数メートル先で派遣の面接か何かで、ロボットのような声色で説明を繰り出しているスーツのおにーさんに、心のどこがきゅっと掴まれたようになって、わたしは現代テクノロジーを耳にまとった、サイボーグ・ピンクモンスターになった。素晴らしき哉、現代文明

 わたしはどのおにーさんも素の自分で働ける世の中を願いながら、今日もわたしの一日を生きる。感覚受容の微調整を、現代文明に委ねながら、簡単に雲隠れしてしまいそうな感性に、場所を与えながら。


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