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オニババと発達障害

 三砂ちづる著『オニババ化する女たち』中公新書、を読んだのはちょうど二十歳のときでした。

 生まれ持った身体に備わる女性性はものすごいエネルギー。だから、それをちゃんと使わないで歳を重ねてしまうと、使われなかったエネルギーが歪んで発露して、ひん曲がったおばあちゃんになるよ、というのが核のメッセ―ジでした。

 この本における三砂先生のメッセージは「生殖機能を使いなさい」ということに尽きます。つまり、パートナーを持って、セックスをして、子どもを産みなさい、ということ(直球!)だけれど、作者は結婚は求めていない。本人に経済力があったらそれでいいし、本人の家族や社会が子育てに手を重ねられるような社会もあっていいんじゃないか、とおっしゃっています。

 この本の刊行から10年余り、女性性・男性性についての集合知みたいなのが深まっている今、(ちょっと話が飛びますが)<一人の人の中の感覚(女性性)にもっと人生を委ね、その人が心から求める人生を、理性(男性性)を使って、妥協なく実現できたらそれでいい>し、それが女性性を使う、ということなのではないかな、と思っています。その大本のところで、体を使うのは大事ですよ、という本書のメッセージには、大いに共感する。

 私の場合は、この本との出会いが、子どもを産むという選択を後押ししてくれました。そのチャンスが思いがけず到来した二十代前半、理性で考えたらベストなタイミングではなかったにもかかわらず。長期的な視野で見たら、理性はベストな選択なんて知らないのかもしれない。途中で何度後悔したか分からないが、今のわたしはその選択を心から受け入れ、祝福している。


 さて、産むは良い良い、育てるは怖い…じゃなく、一筋縄ではいきません。

 ただでさえ男性性極まった成果効率主義が主流の現代日本で、核家族が子育てするのは大変です。何だか知らないけれど、謎の風当たりも感じる(公共の場で子どもを静かにさせられない親は怠慢だ、みたいな。子どもはそういう生きものじゃないぞー!)。

 加えて、個人的にしんどいのが、聴覚過敏との折り合いだ。

 聴覚過敏のおかーさんにとって、休日の朝は悩ましい。

 ちょっとの物音で集中はいとも簡単にそらされる。小動物並みに神経がとがる。だから、テレビで子ども番組がついて姉妹げんかがしょっちゅう起こる子ども環境で、リラックスなんて海の向こうの異国の話、ぐらい遠い理想になり果てる。

 からだがこわばり、心も体もお通じがわるくなる。

 だれか、わたしの耳を完全に塞いで、わたしを静かなところに連れて行ってくれ!と思う。誰にも邪魔されない一人の空間を、わたしの体は狂おしいほど欲する。

 思うに昔オニババになった女の人は、いわゆる「ちょっと変わった」女(ひと)だったんじゃないかな。もしかしたら彼女達には、今でいうところの発達障害があったのかもしれない。

 そういう生まれ持った特性もあって、周りの慣習が彼女に求めるところにうまく適応できなかった結果、婚期を逃して独り歳を重ねることになったんじゃないかな。三砂先生もおっしゃっているように、結婚の有無が問題なのではなく、問題は体を使えたか。シングルでもセックスの相手がいればいいし、それで子どもを産み育てる経済力があるならそれで全然かまわない。けれど、結婚という形態なしではパートナーを持ちえない時代に、オニババが生まれてしまったのかもしれない。

 もしくは、既存の形態にうまくはまって結婚しても夫とはうまく折り合わず、その溝を放置したままパートナーとしての関係が希薄なまま老年まで日和見をして、文句ばかりの拗ねたおばあちゃんになってしまった。彼女は相手の意図するところを読んで当意即妙に返すようなコミュニケーションの達人では、少なくともなかっただろうから。そしてそれを、社会通念上の許容範囲である「夫婦で(とりあえず)添い遂げる」という暗黙の了解のうえで、放置した。

 彼女の心は拗ねたまま、どんどん拗ねて、最後はオニババになってしまった。

 オニババのメタファーは、いくらでも自分自身に起こり得る、と思います。それは、自分の女性性をないがしろにすることで起こり得るでしょうし、自分の得意・不得意・感覚特性があるからなおさら、そこへ無自覚で対処しないでいることは、致命的になってしまうように思います。

 「一般的にこうあるべし」というラインに自分を当てはめていくよう迫られることが、女性には多いように思います。そしてその「一般的にこうあるべし」ラインと「個々が本来持っている輪郭」との間には、多くの場合、ギャップがあるはず。

 だから、「一般的にこうあるべし」という女性像のラインに合わせる必要はない、というのに尽きるんだと思います。普通、とか、皆は、というラインからグッと奥に踏み込んで、自分の生まれ持ったボディラインにぴったりの女性像を描き、それにフィットするシステムを作り上げる。

 それが人生の目的だと考えたら、この女性としての人生は、とても創造的に感じられます。本来、人生がそうであるように。


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【追記】
 「本当に自分にとって心地よい」人生の在り方、のラインは人それぞれ。それを「一般的にこうある」のラインで画一的に鋳型に入れようとしてそれを甘んじて許してしまうと、自分の深いところで摩擦になって、糸がよじれてしまうのだと思います。

 結婚するか、しないか、子どもを産むか、産まないか、というところではなくて、自分の個性・特性に合わせたラインを引き、それを受け入れ堂々としていられるか、ということを一番書きたかったことを、書き添えておきます。



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