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「エディプスの恋人」になれなかったあなたへ(家族と愛着とDBDマーチを考える)

「時をかける少女」をドラマでたまたま観た小学生の私が、鬱蒼とした父の本棚にその原作の筒井康隆の小説群を見つけるのは、その後「世にも奇妙な物語」で映像化された「七瀬再び」に子どもながらこれは、と唸らされた後だった。興味を搔き立てられる。面白いのだ。物語の運びに、そして「もしもこうだったら」のパラレルな世界の隅々まで行き渡る描写に、「そうかもいや、」と想像力を駆使させられた。

本棚の密林に「エディプスの恋人」も鎮座していたが、そちらが気に留まったのはかなり長じてからのことだ。大学一年生の一学期、教職で取った英文学概論で「悲劇の構成」という講義があり、確かそこで「オイディプス王」が出てきた。記憶はあいまいだが、その夏休みに帰省した時に、自分の本棚に移してろくろく読みもしなかった。

そのタイトルがふっ、と今朝のまどろみの中で、語りかけてきた。

私たち人間は、子どものとき、「母親なるもの」や「父親なるもの」に強い愛情を感じ、同じ熱量の感情を向けられることを、すべからく望むのだろうな。

それは、恋に似ている。

「初恋」ともいえるその想いが成就したか、どのような顛末をたどったか、で、大人になったときのその人の心のデフォルトの成熟は、決まるような気がする。(そこから本人の心持次第で、どうにでもなるけれど、デフォルト設定はものを言う)

要は「エディプスの恋人」としての自我が、母親・父親なるもの以外への相手へその愛着の対象を探し出す「前準備」としての「父なるもの」「母なるもの」への恋が、「一度は向かい合って手を取り合ったけれど」「お互いに違う道を行く」というさっぱり・きっぱりしたものだったら、その後、他者と親密な関係を築くにあたっても、そのようにゆけるような感じがしている。

一方、その「初恋」で大好きな目の前の対象が「こちらを向いてくれず、手をつなぐ術を知らない」と、何だか失敗体験から、他者との関係性を結ぶ旅路をスタートさせることになる。

マイナスからの、スタートなのだ。苦しくないはずはなく、またどうして苦しいのかもわからず、彼らは路頭に迷っている。人との関係性という生きていくために切り離せない部分の「迷い」は、昇華されることを知らず、攻撃性として表現される。

迷いや不安を誰かから受け止められる体験が希薄なまま、産業機械のようにして教育から「輩出」され社会に資することを求められて生活し歳を重ねた人は、何かのきっかけで心が決壊してしまうと、それは社会への冷徹を装った無関心や物理的な攻撃としてしか、表現される術をもたない・・・。

それまでの文化を一通り否定して捨て置くぐらい、先の戦争は日本人にとって心痛ましい経験だった。されど、風土に根差した文化なしにどうして日本の足でしっかり立っていられよう?

一夫一妻で核家族とか、そんな閉じた家庭の在り方で、そのような、民族として抱えてしまった「歪み」を、どうして吸収できようというのか。

戦後のそうした日本社会の避けがたい「ひずみ」を、わたしの家族も、直に受けている。


父の心が鬱蒼として表現を知らないのはなぜか。

母の心が傷ついたままでいることを選び続けるのはなぜか。

弟が、長じてからいつまでも手負いの獣のようなままなのは、なぜか。


それは、きっと私の家族のそれぞれにもあるであろう特性が、時代から愛でられず、むしろ貶められる機会の方が多かったことにも、大きく起因しているのを、感じている。


あなたのせいじゃない、だからそこから出ておいで。

意固地になるのも無理もない、だけれどそこは暗く黒く肌に張り付く程、狭い。

頑なにしていなくても、あなたは大丈夫、誰も攻撃をしない、安心していい。

私は自分の両足で立って、そうして誰かときちんと手をつなぐよ。

見ててね!



発達障害をもつ子どもが学童期等に適切な対応を受けることができず、自尊心を低下させることが問題行動とその増加につながり、非行や犯罪に発展してゆくことを「破壊的行動障害マーチ」と呼んで、その関連性に着目し、介入方法の在り方を検討する流れがある、と、一昨年から在籍していた特別支援教育課程の「発達障害者の理解と支援」や「応用行動分析」で学びました。

「破壊的行動障害」は「Distruptive Behavior Disorder」を原語とし、その頭文字を取って上記現象は「DBDマーチ」とも呼ばれるそうです。

多様な在り方を認め、掬い取るような教育を、と思っています。
近代の「家族」だけでは受け止めきれない多様性に、社会に出ていくためのかたちを与え、ハマりどころを作るのが、きょういくであり、地域でありたいと、考えて止みません。

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