発達障害は現代の人災だよ。

つぶやいて、いいかな…。

当事者として、気づいてしまったんだ。

「発達障害」なんて、現代の人災だよ。

うっかりしていて、注意散漫で、

脳内もしくは身体多動で、

その他大勢のやるように合わせられなくって、

そうした空気を読まず行動して「しまって」、

何がわるい?

不都合なのは、

たまたま今、主流になってる

多数派の方でしょう?

合わせられない人がいると、

統制しにくいから、

合わない人を発達「障害」扱いにしてるにすぎず


そうした個性をもった当人たちは

当人たちの必要な環境が与えられ

じぶんの特性といふ個性を

認められ、愛でられ、褒められ、

その他大勢に合わせてけなされ、「正さ」れ、叱られ
本来のものがゆがむことがなければ

大変幸せに暮らしていける素質を持ってる。


これ以上、少数派を傷つけるのはやめてくれ。

教育の名のもとに。



わたしも、おとうとも、父も母も、

みんな、それぞれに変わっていて、

それを認められず、「できない」の烙印を押され、

それを恐れるあまりに合わせることでゆがんできた。


もう、やめてよ、やめよう。


好きに生きていいんだ。


そのとき、

「モノ」に頼ることは、しなくていいんだ。

――ごみ屋敷になるまで、哀しいほどにモノを溜め込まなくていいんだ。


わたしが、ぜんぶ、きれいにしてあげる。


手に入れたとびっきりの箒で、ぜーんぶ掃いて、掃き切ってあげるからね。

 わたしの場合、深く、深く、一つのことに発揮するために賜った天賦の集中力を、こくごさんすうりかしゃかい、めまぐるしく時間ごとにころころと移り変わり表層を撫でるだけのことを「勉強しなさい」と言われて、それを素直にやってきた結果、

 集中力を凝集することをアタマが善しとせず、あちら、こちらに分散する使いようのないポンコツに仕上がってしまい、かといって現代で求められているような事務処理能力も育ちえず、さんっざん適応できず、その後今にわたって後遺症に苦しんでいるだけでなく、

 時間、時間、時間に追われて、それを恐れる余り、多数派の時間泥棒がいつしか決めた期限に「間に合わ」ず叱責を受けることを繰り返してきた余りに「時間」を常に恐れ、やはりそれは分散する集中力という言いようのない欠陥アプリケーションのさらなる誤作動を助長している。


 そのことに、気づいてしまったんだよ、最近。


 つまり、この注意散漫は、現代に先人の先頭を切って誰かが造ってそれを引き継いで引き継いできた人間たちによる、人災だってことに、気づいてしまったの。

 

 代替療法やそれも考慮する現代医学の先生や、学問や自分自身が教壇に立たせてもらう経験や、そして、何より子育て。それらすべてを総動員して、ここまでくるのに、36年もかかってしまった。なんて回り道。


 わたしのするべきことは、生きとし生ける同胞たちが、この回り道をすることなく、まっすぐに伸びる環境を整えること。


 それに資することなしに、わたしのこの辛酸は報われない。


 まだまだ負傷した心と体を養生しながら、


 でも、ひとたび返り咲いたら、フルスロットルでゆくからね。

 みてやがれ。



🍀🍀 🍀🍀


「障がい」は社会(モノ、環境、人的環境等)と
個人の心身機能の障がいがあいまってつくりだされているものであり、
その障壁を取り除くのは社会の責務であり、社会全体の問題である。

―障害者権利条約(2006, 国際連合)「障がいの社会モデル」―

投げ銭は、翻訳の糧になります。