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クロワッサン

「やっぱ月がないと、しまんないよねー」

 窓のサンに身を乗り出して夜空を見上げていた君が云った。

「ほら、みかづき。見てよ」

 君は頭をもたげて、わたしにうながす。

 晴天の夜八時すぎの空には、鈍重な青が重なりあっていて平坦としていたが、

 西の山あい、もう沈みそうにかたむく三日月が見えた。

「あそこだけ幕が破れたみたい」

 たしかに空に切れ込んだ金色の弧線は、

 幕の裏の光が漏れ出るようだった。

 風がふきすさんだ、一瞬。

 となりの君の髪がまとわりついてくる。

「ははっ、ごめんごめん」

 けたけた、転がるように笑う君。

「そろそろ切らないの? 短い髪はいいよ、色々楽でさ」

「伸ばし始めたら加減がわからなくなる。なんとなくもう少し伸ばしたいような……。怠惰かな?」

 そう云って触る髪に、蛾が。

 ぎゅっ。

「な、なによ」

 わたしは触れそうになった手を拾い上げて握る。

 彼女は虫を好いてはいない。

 さて、この手をどうするか……。

「お嬢さん、西の空をご覧」

「西の空、西の空」

「今夜は月が綺麗ですね」

 わたしは膝をついてその手に優しくキスをする。

「えぇ……なに、プロポーズのつもりなの? 人が教えた三日月で?」

「いや、そういうわけではない」

 わたしは立ち上がって、彼女の髪から虫をはらい除ける。

「あ、蛾。もしかしてついてたの」

「さあ、どうでしょうね」

 言葉を濁すわたしを尻目に、君は唐突に云い出す。

「こんな話があるんだけど」

 その昔、オーストリアとトルコが戦争してた時、ある朝トルコ軍は地下道で秘密裏にウィーンに侵攻しようとした。
 しかし、それを早起きのパン屋さんが見つけてこっそりオーストリア軍に通報したから事なきを得た。
 その後そのパン屋さんは、負かしたトルコ軍のシンボルだった三日月を食べてしまおうと思いついて、クロワッサンというパンを発明した。

「って話なんだけど」

「どうした急に」

「いや、今のあなたに似てるなって……」

「パン屋さんが?」

「そうよ……。ああ!」

 君は突発的にかがみ込んで、

「クロワッサンが、食べたいっ」

 そう叫んだ。

 流石に手焼きとはいかないので、折よく近くに開店したクロワッサン専門店へと足を運び、今晩は洋風の食事をとった。

「でも、トルコ旗から三日月を取っちゃったら、しまんないよね」

「そうだね、傾いた星しか残らない」

「国家として、傾くってのはよくないねえ」

 そう云って平らげた皿にまじまじと目を落とす。

 そこにはサラダが散乱している。

「やっぱり主役がいないとダメだ。さあ、クロワッサンを焼いておくれ!」

「明日の朝ごはんって云ったのは誰だよ」

 西の空にも、もう三日月はなく、

 都会の光で星座にも見えない、いびつな星だけが並んでいた。

トルコ旗はこんなのです
🇹🇷
作中でトルコと言いますが、正しくはオスマン帝国
ちなみに、当時のオスマン帝国軍旗の星は☆五芒星でなく、✴︎八角星
現在の五芒星は民族の団結を示しており、傾くだなんてもってのほかです
(ゴメンネ)

Kise Iruka text 122;
Croissant

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