【連載小説】発砲美人は嫌われたくない_3

 3
 ぴちょん、ぴちょん、と水音が弱まったということは、シャワーが止められたことを意味する。烏の行水という言葉がある。ヤカタさんがユニットバスから戻ってくるのは異様に早かった。ヤカタさんがカラスだとすれば、続けて読めばヤカタカラスになり、何やらヤタガラスのような響きを醸し出す。ヤタガラスは、カラスであり、神なのだ。この上なく縁起が良いし、きっとあなたたちの出会いは、神の思し召しに違いない。このような幸運がもたらされたことに、みんなで感謝をしよう。

 そのようなことを一息で言ったあとで、カナコが「で、誰?」と言った。僕が必死に紡いだ数百文字よりも、濃密に凝縮された三文字だ。
「ヤカタと申します。スエヒロさんのお隣の」
「あんたに聞いてない。スエヒロくんに聞いてんの」
「ヤカタさん。スエヒロくんのお隣の」
 カナコがばしんと壁を叩いて、咄嗟に「ちょっと、お隣さんに迷惑だから」とたしなめてみたが、そのお隣さんは今、お隣にいる。胸の上のあたりでバスタオルを巻くというオプション付きで。
「信じらんない。どういう関係?」
「なにぶん寂しい身ですから、スエヒロさんには、いろいろと慰めていただいておりまして……」
「ちょっ、ヤカタさん、黙っててもらえますか」
 ヤカタさんは「私が嫌いだからですか?」と言いたげな顔をして、でも言うとおりにしてくれた。
「で、どういう関係?」ス、エ、ヒ、ロ、くん、と「グーリーコ」の要領でカナコが近づいてくる。「カーナーコ」と近づいて抱き寄せて済めばこれほど楽なことはないが、どちらかといえばその三歩分遠ざかりたい。
「ヤカタさんは最近お隣に引っ越して来た方で、顔を合わせれば挨拶はするくらいの関係です」
「へえ。ヒトの部屋で裸になることを、あ、い、さ、つ、って言うんだ」
 それは誤解です、とヤカタさんが両手を広げた。すると、どうなるか。脇で挟んでいたバスタオルが緩む。ひと回りはだけ、ふた回り目がはだけると同時に、バスタオルが床に落ちる。隣に立つ僕の目には、ヤカタさんの胸の膨らみが飛び込んできて、目を逸らさなければいけないはずなのに、体は言うことを聞かない。

 いちばん驚いたのはカナコだった。
 無理もない。突然の訪問で彼氏を驚かせてやろうと息まいて来たのに、部屋にはバスタオルを巻いた美人がいて、そのバスタオルがはだけたかと思うと、胸の谷間に拳銃が挟まれていたのだから。
 ヤカタさんは挙げていた両手を下ろした一瞬で、拳銃を引き抜いて構えた。銃口はカナコの見開かれた両目の真ん中を向いている。
 好都合だったのは、カナコが叫ばなかったことだ。僕はゆっくりと「カーナーコ」と心の中で唱えながら近づき、羽交い絞めにした。目と口をガムテープで塞ぐ間も、カナコは立ち尽くしていた。何もかもを塞がれたカナコの顔からは、涙かもよだれかもわからない液体が流れてきた。両手両足をビニール紐で巻きつけると、重心を失ったのかへたへたと座りこんでしまった。無造作に開かれた足の間からも、液体が染み出していた。
「ヤカタさん、終わりました」
 耳を塞いでいないから、「カナコだったもの」が体を震わせた。
「おつかれさまです。汚れちゃいましたね。体を流してあげましょうか?」
「いや、大丈夫。後始末をしたら行くので、戻っていてください」
 ヤカタさんは拳銃を箱にしまい、シンクの脇に置き、バスタオルをまとわずに出ていった。いくら隣とはいえ、その格好で外に出るのは……とは思わない。バスタオルはカモフラージュで、ヤカタさんの着衣は乱れていない。
「やれやれ、まさか、OJTなしでいきなり実戦とはな」

 話は二十分まえに遡る。ヤカタさんがユニットバスに姿を消し、僕がカナコからのメッセージを確認したときだ。
 両手で顔を覆って天を仰いだ僕は、覆った両手を下ろすときに、ユニットバスの扉に手の甲をぶつけた。それは痛みを伴うようなぶつけ方だったし、音もそれなりに出た。「抗議」の意を表す叩き方に似ていたのだろう。すぐに扉が開いた。
「ちょっ、やっ、ヤカタさん」というような言葉を口走った気がする。ぶつけた両手でもう一度顔を覆っていると、ヤカタさんの冷たい手がそれを引きはがした。
「どうされました? 目がかゆいのですか?」
 なるべく見ないように、そう思いつつ薄目を開けると、ヤカタさんはユニットバスに消える前と同じ格好をしていた。
「なんで服を着ているんですか」
「え、ごめんなさい。脱いだほうがよろしかったですか?」
「いや、てっきりシャワーを浴びているものだと思ったので……」
 ああ、とヤカタさんは美人特有の笑みを浮かべた。「説明が足りなかったですよね。手を洗っていたのです。ほら、わたしの部屋は水道の契約をしていませんから」
「ほら、って……」それで、手が冷たかったのか。腑に落ちたような気もするが、たかだか手を洗うくらいで、隣人の部屋のシャワーを借りるなんて。手を洗うだけならシンクでじゅうぶんだ。
 そんな疑問をぶつけるよりも前に、メッセージのことを思い出した。
「それより、ヤカタさん、まずいですよ。このあとカナ……僕の彼女が来ることになって、鉢合わせたらいろいろと面倒なことになるから」
「その方は、スエヒロさんにとって、面倒な方なのですか?」
 あなたのほうが、と出かかった言葉を慌てて飲み込む。確かにカナコには面倒なところがある。その最たる例がまさに今のサプライズ訪問だ。サプライズなのに僕はそれを待ち構えていないといけないし、サプライズだから誠心誠意驚きとよろこびを表現しないといけない。
「まあ、面倒なときもありますね」
「邪魔ですか?」間髪入れずにヤカタさんが聞く。
 邪魔、と言ったらどうなるのだろうか。
 隣に越して来た美人。間違えて受け取ってしまった拳銃。社会に蔓延する漠然とした不安。定時に終わらない仕事。微笑む美人。
 すべてを入れてミキサーにかけたら、できあがったのは「好奇心」だった。
「邪魔ですね」
「消しますか?」
「消しましょう」

 こうして、二十分後には「カナコだったもの」ができあがっていた。

(つづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?