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タルコフスキーと幸福

 一人で歩いていてもつまらないのです。

 同世代の若者が、前髪を垂らし容貌からは活気さを微塵も感じ取れないのは中身が疲れているから。今の時世は彼らの姿に表れています。

 政治のことは知らないが、経済のことは知らないが人間という生き物、日本人という存在が弱く、弱くなっていることを感じる。それが錯覚であろうと沸き起こったその感覚は大事にしたい。

 どうにも失われた30年とかいう言葉はよろしくないと思うのです。わたしの父はプライドが高く自らインテリであることを吹聴しますが、田舎の実家に戻ってから事業がうまくいかず、ある程度の収入が見込める仕事をし、あからさまに悶々としております。テックの時代であると、グローバルの時代であると、あれこれ試してあるようですが、年齢のことをよく話すようになったのでうまくいってはいないのでしょう。わたしの経験値が低いからか、もうやめろよ、そのまま過ごしてくださいと言ってしまいたくなる。気になるのが今の子どもは弱いからと前に言っていたこと。わたしもそう思う。自分は一世代前の人と比べると精神的に弱い。よく言えば優しい。冷たく言えば、甘い。実家に戻って父方の祖父母に言われたことだ。「あんたは甘い」「甘いからこんな弱い子になってしまうんだよ」

小学生の5年生ごろから父はいっそう厳しくなった。おそらく祖父母のおかげで自分はここまでの人間になったという経験のもとわたしたちへの接した方を変えたのである。今思うと芯のない人間だと卑下する材料となった記憶である。推測の通りわたしたちがうまくいかないと分かるとその気も落ちた。

高校に入ると映画に興味を持った。映画観を変えられたのはタルコフスキーの作品。本は手に取って重さを確認することが出来るが、映画はそうはいかない。しかし彼の作品が重さを認識させてくれた。記憶にどっしり残ったのである。それからは心酔である。見ているときは何か埋めてくれたのである。

家に一人でいる時は何も顔を作らなくていい。その顔がタルコフスキーの映画の人間の顔と一緒であった。こちらに寄り添ってくれているようで気が楽になる。傷ついた心の修復をしてくれるのである。

この世の時流は大衆のもの。大衆が腐れば時代は腐る。腐った時代に身を任せられますか。時代が腐っていると感じるのに流れに乗っている行為が気付かぬうちに頑張ってしまっている。わたしは今の若者が、子どもが非力だとは思わない。ただ視点が違うのである全時代とは。辛かったら下を向けばよい。話したくないのなら話さなくてよい。人間の幸福に邪魔なものはなるたけ避け、考えた結果逃げた方が良いなら逃げればよいのである。それは人間社会というよりも人間という動物、生物としてのあるがまま。お腹が空いたらしっかり食べる。活動に支障をきたすさなように十分な睡眠を得る。好きな人ができたら正面から向き合う。

我慢をしないように自らの幸福を満たすそれが最も優先される世界を望む。

タルコフスキーの映画はその手助けになると疑わない。



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