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わたしたち、同じものを見てきれいな色だねと言うのに、あなたとわたしで全く同じ色を見ることは永遠に不可能だなんて皮肉な話だと思わない?わたしたちは同じものをそれぞれの違う思考回路を通して「きれいだ」という共通解に至る。なんだかそれっておもしろいけどすこしかなしい。だけどそれは多分、相手の眼球だけを移植したところで同じものが見えようになるというわけでもなくて、きっと根本的に脳味噌を入れ替えないとあなたと全く同じものは見れないんだろうな。それを忘れちゃいけないよね、同じものを見ていても、捉え方はそれぞれの思考回路に則ったものであるということ。表でそれに対する共通解が出たとしても、答の認識自体がそれぞれの思考回路に則ったものであるということ。たとえば、君と私で「好き」という共通解を互いに見出したところで、君の「好き」がどんな形をしていて、どれくらいの重さのものなのかは分からないし、私のものと形も質量も全く同じなんてことは絶対にありえない。ねえ、そうなんでしょう?そういうことなんでしょう?
「求められることも、求められないことも、どちらもくるしいからね」
言葉には質量がある。同じ言葉でも、軽いものと、重いもののどちらもあるからくるしい。自分が軽く使った言葉を重く捉えられるのはくるしい。だけど、自分が使った重い言葉を軽く捉えられるのも同じくらい、くるしい。それは気持ちも、同じだ。私の言葉とあなたの言葉、もしくは互いの気持ちを天秤に掛けてみて同じくらいを保てないとどちらもくるしい。とりわけ、重い言葉とそれに付随する気持ちで天秤が傾いている方が。
天秤がずっと平衡でいてくれればいいのに。眼光紙背に徹する癖がついてしまったあまりに、私の言葉や気持ちを乗せた天秤は決まっていつもこちら側に傾く。もう、つかれてしまった。私の言葉が軽くあしらわれてしまうことにも疲れたし、私の方に傾いて、低く沈んだ私の足元、そこからちょうど私が沈んだ分だけ高く上昇した君の上皿を見上げるのも疲れた。私の言葉やそこから伝う気持ちの重さで、不本意にもそれを向けられた相手までくるしめてしまうことにも。
全人類がみんな足並み揃えてせーのでしあわせになれたらいいのにね。この世の条理では、かなしいけれど誰かの幸せは誰かの不幸の上に成り立っているものだし、何かを得るには何かを失わなければならないことになっている。この世の何かを天秤に掛けた時、必ずどちらかに傾いてしまうけれど、双方の質量の合計はいつも等しい。そうやって世界はうまく回っているんだろうな。だけど真っ向からそんな正論なんて突きつけられても辟易してしまうよ、勘弁してくれ、セカイ。
このまま君と天秤に掛けられていたらそのうち壊れてしまう気がしてるんだ、だけど世界はうまく出来てるから壊れる前にきっとどうにかなっちゃうんだろうね。多分そのうち平衡に戻るはずだよ。君が沈むか、私が昇るかの、どちらかで。

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