見出し画像

【書評】『養老孟司の大言論』才能とは「問を知らないのに、答を知っている」こと

どうも、こんにちは。kei_tenです。

本日は『養老孟司の大言論』シリーズを紹介します。

養老孟司さん&『養老孟司の大言論』とは

養老孟司さんは、言わずと知れた大ベストセラー『バカの壁』の著者で、解剖学者という肩書きを超えて活躍されている、現代の“賢人”の一人です。

『養老孟司の大言論』シリーズは、2002年〜2010年まで季刊誌『考える人』に連載された「万物流転」を単行本化したもの。
2011年に『Ⅰ 希望とは自分が変わること』『Ⅱ 嫌いなことから、人は学ぶ』『Ⅲ 大切なことは言葉にならない』という3部作となっています。(文庫化は2014年)

今から10年以上も前の本で、雑誌掲載の時期からすると20年前の内容もありますが、令和の時代でも全く色褪せない、まさに“大言論”を楽しむことができる本として、多くの方におすすめしたい一冊です。

『ラジオ版・学問のすすめ』でのインタビューはライトに聴けますので、まずはここから、というのも良いですよ!

今回このnoteでは、3冊目の『Ⅲ 大切なことは言葉にならない』に収録されている「自然に学ぶ」を、ピックアップしてお話しいたします。

「答」が「問」とセットになって、そこにあるのが「自然」である

「自然に学ぶ」という言説はよく耳にするものですが、ぼくはその意味(本質)をこの本から教わったと思っています。

結論から言うと、「人によって「問」に見えるものと「答」に見えるものが異なり、それが適性・才能だ」ということです。

そのことを、引用を交えながら解説しましょう。

木の葉はどういう規則で並んでいるのだろうか。
(中略)
あの並びの理由はおそらく単純である。その一本の木が、最大の日照を受けるように配列しているに違いない。
(中略)
これを計算機で解答しようとすると、はなはだ面倒なことになるに違いない。少なくとも私はやる気がしない。でも計算の必要はない。なぜなら実際に葉が木についている状況が、その問題の「解」になっているはずだからある。
(中略)
つまり自然はすでに解を与えている。でも普通は問題のほうに気づかない。
(中略)
問を知らないのに、答を知っている。そういうときに、われわれはなにかを感じているらしい。たとえばそれを「美しい」というのかもしれない。
(中略)
そういうものを見ているとき、脳はおそらく余分なエネルギーを使う必要がない。つまり「疲れない」はずである。だからこそ美しいものなら、人は「喜んで見ている」のである。

『養老孟司の大言論Ⅲ 大切なことは言葉にならない』「自然に学ぶ」より

自然の木々を見ているとき、ひとつひとつに一々「?(ハテナ)」と反応していては、疲れるどころの騒ぎではありません。

そして木々を見ているとき、「最大の日照を受けるように配列している」という【「問」と「答」】のセットを一々考えることもありません。

「無意識」で見ているから「脳が疲れない」ので、なんとなく「美しい」と僕たちは感じ、森林浴に行ってリラックスできるのでしょう。

それを「問を知らないのに、答を知っている。」と、養老先生は言っているのです。

努力家とは“才能のない人”である

才能がないから、繰り返し見て覚える

上記の概念を、日常生活での自分自身に、意識して当てはめるとどうでしょう?

この本の中では、養老先生が「虫(ゾウムシの仲間)を見分ける才能」を例に、教えてくれています。

先日アフリカに行った知り合いが、「こんな虫が採れたけど、ゾウムシかもしれない、ゾウムシだったらあげる」とメールと写真を送ってくれた。

それを見たらゾウムシみたいだが、根拠をと問われると断言できない。写真だと必要な詳細が見えないから仕方ないのだが、ともあれはじめて見る種類であることは間違いない。判断がつかないから、しばらく放っておいた。

そこに別の虫屋の友人がやってきたので、写真を見せて、どうだと尋ねたら、たちどころにゾウムシだという。それしか考えられないのだという。

そういわれたとたん、アッと気がついた。そこで『オーストラリアのゾウムシ』という大部の書物の第一巻を出してきて、開いてみたら、似た種類がちゃんと載っている。それを見たことがあるのに、私は思いつかなかった。

そういうわけで、私はその種の才能がかなり欠けている。だから一生懸命に虫を見る。ひたすら繰り返して見て覚えるしかない。

『養老孟司の大言論Ⅲ 大切なことは言葉にならない』「自然に学ぶ」より

漢字が得意か、地学が得意か

似たような経験、僕にもありました。

高校生の時、暗記が苦手で漢字テストは追試の常連でした。

漢字が得意な友人は「一度見れば覚えられるだろ」と言っていましたが、僕は書いて書いてを繰り返し、それでも覚えられない。

逆に僕は地学が得意で、その友人は苦手でした。彼から「地学を教えて」と言われ「絵を思い浮かべるんだよ」と説明したものの、「さっぱりわからん」と言われる始末。

当時はなぜだろう?と不思議に思っていたのですが、この本を通じて「人には「適性」というものがあり、人によってパッと見たものが「問」に見えるか、「答」に見えるか、が異なる」ということだったと気付いたのでした。

ジョブチェンジで才能が開花するのは、「問」が「答」になっただけ

社会人になって、仕事の現場でこの「才能(適性)」というものを感じさせる機会がたくさんありました。

Webディレクターとして全然ダメだった人が、データ解析に異動したら突然活躍し始めたり。メール営業での成績が低い人が、電話営業になると成績が伸びる、といった具合に。

これは、養老さんの「自然に学ぶ」に当てはめれば、結局はその人にとって“できない仕事”は「問」であって、“できる仕事”は「答」なのだと思います。

「問を知らないのに、答を知っている。」

だからこそ、どれだけやっても疲れない(苦ではない)し、美しいと感じる(かもしれない)から、努力もできる。

要は“そういうこと”なのだと思います。

努力できるのは才能か?

『養老孟司の大言論』(の「自然に学ぶ」)の言説をもとにすれば、人には適性や才能があり、だからこそパッと見ただけで判別できるものがあれば、何度やってもできないものもある。

それは、適性や才能があるものはあらかじめ「答」が見えているから、ということになります。

では、努力はどこまで関連性があるでしょうか?

「脳のエネルギーを無駄に使わないで済むから、努力できる。」というのが正しいようにも感じますし、「才能・適性がないから努力が必要になる」と考えることもできます。(あるいは、才能はないけど適性はある)

「自然に学ぶ」では、こう締めくくります。

努力家というのは、その意味では、要するに才能のない人である。才能があったら努力は不要である。才能がある人が努力をするのは、才能がない部分についてである。

ただしたいていの仕事は単一の才能を発揮しただけではできない。一種の総合だから、その全てに才能がある人なんていないはずである。だから仕事のどこかしらは、努力しなくてはならない。

『養老孟司の大言論Ⅲ 大切なことは言葉にならない』「自然に学ぶ」より

これは非常に“言い得て妙”ですよね。

補足するなら、幾分かの才能(「答」に見えるもの)に関連する仕事をしているから、努力(「問」に見えるものの解消)を続けていける。

人が仕事でそれなりの成果を出しているのは、なんだかんだで才能を発揮できているから、ということに尽きるかもしれません。

仕事や勉強でなかなか力を発揮できていないなら、目の前の仕事が「問」にしか見えていない可能性を考えてみましょう。

では何だったら「答」に見えるのか?

それは、どれだけ長くやっていても苦ではないもの(脳がエネルギーを使っていない)、そして美しいと感じるものではないでしょうか。

新年度に入ってから2ヶ月が経過し、周囲もそろそろと考え出す頃と思われるので、新社会人の方や学生さんにとって、少しでもプラスになればと思い、今回のお話を取り上げさせていただきました。

ではまた!kei_tenでした。


▼Spotify Podcastで音声配信をしています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?