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ウィッチャー3の後にドラクエ11をやってみて思ったこと

すこし乱暴な議論になるかもしれない。

個別のタイトルをこき下ろすつもりはなくて(そう見えたなら申し訳ないと思う)、いったいそれぞれ何を目指しているのか、理想とする世界観はなんなのか、という話になる。

ちなみにドラクエ11は最初の王様とのイベント後で止まっている。
面白いストーリーだと思うが、あまりやる気が起きない。

たいしてウィッチャー3だが、ストーリーラインは退屈なシーンも多いものの、作り手がめざす世界観については大きく納得できる。ドラクエ11とは逆になった。

なにが気に入らないのか。
ウィッチャー3では、荒廃した戦地がまず舞台となる。
戦争によってひたすら疲弊し、ぼろぼろでぐちゃぐちゃの湿地帯からスタートとなる。
ヴェレンに初めてやって来た時、「首吊りの木」といって捕虜や反乱分子が巨木に吊るされ、殺されている光景が映される。
それから十字路の宿屋へと向かうが、住民は基本、優しくない。彼らは「人」を信じていない。

一方ドラクエ11では、のどかな村からスタートする。

驚いたのが、盗賊の危険や窮乏とはまったくの無縁であるということだ。中世ヨーロッパ的世界観でそのようなことがあるか?
まったくありえない話ではないが、地方領主がとんでもなく有能ならありえるかもしれない。しかしイシの村に領主はいない。谷間の街で耕作はほほできないはずだが、有力な産業があるようにも見えない。また防衛力はほぼ存在しない。

ウィッチャー3では、ある程度物語を進めると、ヴェレンから大都市ノヴィグラドに舞台を移すことになる。このノヴィグラドを超えるような中世都市を描けたゲーム作品は一つもない、と言ってもいい、すばらしいディテールだ。

ノヴィグラドは、非常に「生ぐさい街」である。生活感がある。生きている、汚さがある。
いちおう独立都市ではあるが、レダニアという王国の教団が(表向き)政治を牛耳っており、魔女狩りに似た迫害をしている。
住民は生きるのに必死であり、治安はよくない。四つのマフィアが存在し、彼らが裏社会を牛耳っている。その絶妙なバランスで成り立つ、欲望と歓楽の街である。

一方ドラクエ11でおとずれる大都市(たぶん大きい都市)デルカダール

非常に見事な造形だが、わたしはリアルさに欠ける、と思ってしまった。

わたしの言いたいことは、すこし明確になったと思う。
いったいそれぞれ、何を目指しているのかが大切である。

ウィッチャー3がリアル志向なのは、定評となっているが、ドラクエ11については、あまり比較されないというか、「あれはあれでアリ」という評価で落ち着くことが多い。ともすれば「聖域」である。

根強い固定的なファンがおり(40-50代が多いそうだ)、つまらんと一言いえば、「じゃあやらなければいい」と言われてしまう、そんな評価不要なところがある。

ドラクエ11がつまらない、とは決して言えないだろう。先ほども言ったが序盤のストーリーはかなり面白い。順調と思ったら急転直下のシナリオはよくできている。

ただし、あまりやる気にならない。なぜだろう、と思った。

おそらく「実感がない」からだと思う。

ドラゴンクエストは勇者の物語である。
のどかな村で暮らしている青年が、いきなり「おまえは勇者の子孫(生まれ変わり、運命etc)だから王様に会いに行って世界を救え」といわれる。
「???」とあたまに疑問符が浮かぶ。
これがドット絵の簡略化された世界観であれば、納得はできたものの、ある程度立体的につくられたリアルな世界観で言われると、滑稽をとおり越してウソか冗談であればいいのに、と思うくらいだった。

一方ウィッチャー3のスタートは、どうか。
まず主人公のゲラルトの平和な夢から始まるが、とにかくかつての恋人ヴェンガーバーグのイェネファーを探す、という目的でメインストーリーは進んでいく。

これも初めは「???」だが、ゲラルトのキャラクターが確固としたもので出来上がっているので、「そういう人なんだな。また恋人に会いたいのかな?」で納得できる。
ただ少し経つと、イェネファーを探すという目的は、大筋の目的に過ぎないということが分かって来る。
かれの本質は「ウィッチャー」であり、「怪物退治」である。イェネファーを探すために情報収集しているあいだも、彼は人々から頼まれて怪物を狩りまくる(戦闘では経験値がほとんど得られないので、必然的にサブクエをこなさなければならない。経験値はクエスト報酬としてもらえる)。

その印象的なシーンが、序盤のボスであるグリフィンの討伐である。

ここでは今作の世界観、ウィッチャーという職業の本質が描かれる。
まず交換条件で依頼を受けたあと、彼はすぐに討伐には向かわない。
ここでドラクエ及びJRPGファンだったら、疑問に思うはずだ。「化け物くらいとっとと倒しに行かないのか?」と。
わたしも思った。なんと主人公のゲラルトはこう言うんだ。「その化け物を見たという人物と会い、情報を得たい。それから、グリフィンをおびき寄せるための餌を作らなければいけない。この辺に薬草師はいるか?」と。

もしドラクエ流のJRPGならこう言うだろう。「化け物は〇〇の洞窟のいちばん奥に住んでいる。中はモンスターでいっぱいだ。しっかり準備していきなされ」

わたしが言いたい「目指しているものの違い」とは、こういうところに現れる。

なぜゲラルトはすぐにグリフィンを倒しに行かないのか?
当たり前な話だが、居場所が確定していないためだ。グリフィンの巣など誰も知らない。ゲラルトは痕跡を追って、グリフィンの巣にたどり着くが、実はすでに依頼者の軍隊が襲撃した後であった。部隊は全滅させられ、そこでゲラルトに依頼が来たわけである。そういうバックストーリーもある(ただし、こういうのはドラクエにもある)。

ゲラルトは入念に準備する。餌を作り、グリフィンにきく薬を作り、ひとけのないところを選んで待つ。そこでようやく戦闘が始まるわけだが、当のグリフィンも、軍にメスを殺された恨みもあって狂暴化したという背景があり、どこかやるせない。

人びとを襲った怪物を退治して、村に戻ると、感謝されるどころかゲラルトは迫害を受ける。彼らからすれば同じ化け物なのである。
それでもゲラルトは、どこかしれっとしている。慣れているし、それがウィッチャーだと知っているからだろう。

ここまでくれば、われわれはウィッチャー3という作品が目指しているものを、だいたいは理解することができる。
ウィッチャーのゲラルトは、特に世界を救おうとはしていない。そもそもそんなことは不可能である。メインストーリーの流れから、ワイルドハントというエルフの軍団と戦うこととなるが、自分の義理の娘であるシリを守るために戦うのであり、世界の存亡をかけているわけではない。勝手に舞台に上がってしまったのであって、かれは舞台に上がろうとはしていない(もし頼まれたら、いったいいくらの報酬をくれるのか? という交渉が始まるだろう)

たいしてドラクエや他のJRPGはどうだろう。

ドラクエは勇者が世界を救うという大筋で固定されている。
もちろん他のJRPGはそういうものばかりでもない。傭兵として戦いながらじょじょに世界の存亡にかかわっていく場合もあるし、国を追われたりヒロインを守るために戦いながら、すこしずつそうなっていく場合もあるが、結局最後は世界の存亡である。

ウィッチャーとの違いは、それが主目的となっているか、そうでないかである。
突っ込んだことを言ってしまえば、ドラクエ含むJRPGは、善人であることやとある道徳観念を体現するよう(主人公に対して)強く要請し、そしてそれが無理なく叶うようにセッティングされている場合が多い。多いというか全てそうである。

たいしてウィッチャーは、善人であろうとするのを、実はかなりセーブするようにセッティングされていると言える。

実際にゲームをプレイしてみたら分かるが、このゲームは安っぽい善人であろうとするのを許さない。
人びとを襲っているという盗賊団を討伐しろと言われたら、実は彼らは、国の復活をめざしたレジスタンスであったり、怪物に襲われていた村人を助けたら、実は彼は巣から卵を盗んだだけの悪人であったりする。

もちろんそういう「善人であることを制限される」ストーリーに嫌気がさす場合もあるだろう。円満な解決というのは、ある種心地いいものだからだ。
もちろんウィッチャーにそういうストーリーが全くないというわけではない。むしろだいたいは、円満な解決が目指せる。ただ中には危うい選択が迫られる場合もある。

日本のRPGは、善人であり、聖人たらんとすることに、特に違和感を持たないキャラクターが集合しているように見える。

しかし、ウィッチャーのゲラルトおよびシリ、仲間のイェネファー、トリス、ダンディリオン、ゾルタン、シャニ、レジスたちは、そんなこと思いもよらないと答えるだろう。
なぜなら、世界がそれを許さないからである。

それでも晴れ晴れと生きることができる。
ゲラルトは語る。「おれは、おれにしか解決できない問題に対処するために、このウィッチャーという仕事を続けている。仕事は今どこにでもある」と。
言うまでもなく、怪物に困っている人を助ける、ということだ。しかし戦争をなくしたり、社会的不正をなくすために積極的な行動はしていない。そういうことを求められたら、「ウィッチャーは中立であれと言われている。政治に関与することはできない」と答える。

実際に難しい。
ウィッチャーをプレイしていると、戦争の影響というものをひしひしと感じることができる。人々の生活は困窮し、死がぐっと身近になる。
盗賊が跋扈し、田畑は荒らされ、村が消滅していく。その中でどんどん金のありがたみが増していくが、同時に人の命の価値は軽くなっていく。信頼という価値は希薄になる。

いったい何ができるだろうか? 目の前にいる人を助ける、それくらいしかできない。だからウィッチャーの人物たちは、現実味を帯びた顔つきをしている。自分の能力をひとのために役立てようとするシャニも、大物ぶった顔つきはしない。
非常に謙虚である。

もちろんこういった「価値観の話」だけで、なにもかも断罪するわけにはいかない。
ドラクエにはドラクエの良さが、ウィッチャーにはそれ相応の良さがある。
ただし、これをJRPG全体の傾向と考えたらどうだろう。

JRPGはそのほとんどの実体をスマホゲーへと抜き取られたが、まだ据え置きのビッグタイトルにも力を残している。
ただし、ビッグタイトルになればなるほど、製作費は膨大となり、身動きが取れなくなっていく。挑戦的な題材は封じられ、安牌なテーマばかりを積み上げていくことにならないか。

もちろんドラクエ11は、その中でもとりわけ挑戦的なドラマにしようと努力しているタイトルであるとも思う。しかし日本のRPGの大きな潮流としては、どこにも道を見いだせなくなっているのではないか。

なぜなら「善意」あるいは「善く在る」というテーマは、語れることが非常に少ないからである。

もちろん日本だけの問題ではない。アメリカの業界なんて、もっとひどいものである(ちなみにウィッチャー3はポーランドのゲームである)。
アメリカは非常に保守的で、日本よりも断然に制約が多い。ポリコレがいい例で、一度これと決めたら、他のスタイルをなかなか試せない。ハリウッドを見たらわかる。同じものばっかり作っている。

ただしJRPGも似たような空気感を持っているという疑いがある。

シナリオを手掛ける際、もっとも重要なのはキャラクターと、「驚き」を演出することである。ミステリのような「謎」は後者の「驚き」に含まれる。

JRPGはそのような「驚き」を演出することは上手いのであるが、キャラクターを造形するのは手こずっている。むしろ無名の漫画家たちのほうが、キャラクターを造形するのは上手である。
キャラクターは「驚き」よりも物語の根幹に位置するもので、いわば根であり、「驚き」は花といっていい。

話がそれたが、開発費の高騰で挑戦ができなくなった以上、安牌なテーマに頼らざるを得なくなっている状況では、新しいことにチャレンジできないのではないかと思っている。
わたしがドラクエ11の街の綺麗さ、不自然なまでの整然さに気がそがれてしまったのは、まさにそれが原因である。

主人公は定めを受け取り、とくに利害の関係もない「定め」によって勇者となって、問題を解決しに出向く。これは面白いだろうか?

気分が乗らないのである。

街が平和すぎる。ひとびとが安楽すぎる。善人であることに困難さがない。

またこれはあくまで「傾向」という話だが、JRPGのキャラクターの倫理観は「現代的」すぎる場合が多い。

(現代よりも過去を舞台にしていると思われる話に限定される)

当然の話だが、物がこれほど豊かでなかった過去は、ひとびとの倫理観にもかなり影響が出る。端的に言えば、ひとの命を大切に思わなくなる。同情の価値が希薄になる。
さきほどのウィッチャーの話がいい例である。

まるで現代に生きている人間のように、危険に対して鈍感で、平気で夜に女性一人で出歩いたりするし、怪物退治でも余裕たっぷりであったりする。

個人の価値観が重視され、自由な気風がととのっている。命は当然ながら、最重要視される。これは平和な国の中堅貴族ならともかく、戦争の危険がある国、ましてや農村なら絶対にありえないことである。

また農民の顔が綺麗すぎる。

これはアニメですが

農村には娯楽がなく、また下水道がない。畑仕事か、家畜の世話をしなければならず、子供は当然ながら教育が受けられない。綺麗な着物などは豪農でなければ着られない。医者がいても無免許であるか、単なるまじない師である。たいてい地方領主がいて、重税や生活苦にあえいでいる。オオカミやクマ、盗賊などにもよくねらわれている。また幼児の生存率は基本的に高くないから、よく簡単に死ぬ。場合によっては農民もクワやスキで武装することもある。

もちろんここまでリアルにする必要はない。あくまで「程度」による。
だが、そういったことが考察されていない、現代人を引っぱりこんで農村に住まわせたような、キラキラした自由な生活空間を見せられると、首をかしげたくもなる。

(ただ、これは別に日本に限った話ではなく、アメリカもハリウッドなどで歴史ものをやるとき、無勉強さを露呈することがある)

もちろんすべては「程度」の話である。非常によくできた作品も実際は多い。リアルさが欠けていても、シナリオやキャラクターが優れている場合もあるから、「これはこれで良し」となる場合もある。
上のアニメもちょっと面白そうだ。

最後に話がだいぶそれてしまったが、ゲーム体験といえど、それは一つの世界を歩く行為であると言える。もちろんフィクションであるから、何かしらの「ウソ」がある。
ならば物語の世界観を手掛ける人に要求されるのは「うまく人を騙す能力」である、あるいは「ウソと分かっても人を楽しませる能力」である、と言えるかもしれない。
いかに説得力を持たせながら、興味を持続させるか。

ドラクエ11は序盤で「ハリボテ」があるような気がした。しかし物語のタクトをふる動きは面白そうである。最終的に評価がくつがえるか、やってみようと思う。

(余談)
もしわたしの話の中で、海外ゲー賛美のようなものがかいま見えたとしたら、誤解であるか、わたしの不勉強のためだと思ってもらいたい。

先述したようにウィッチャーはポーランドのゲームであって、アメリカのゲームとは異なる。アメリカはアメリカで、ポリコレという不自由さにあえいでいる。また人物造形も、日本と同じく保守的であり、変わり映えしないことが多い。

ウィッチャーというゲームは、まず原型が文芸作品という形でちゃんとあって、チーム全体が同じ方向を目指せたうえでできた、奇跡のような作品であると思っている。
(もちろん批判がないわけではない。メインシナリオは大勢が関わったせいか、物語に動きがなさすぎる。反対にサブクエストはずっと少ないライターや演出家で成り立っているためか、非常に出来がいい)

もちろん日本のJRPGは、手本とすべき古典が山ほどある。いつかそれを発掘して、全てを吸収した天才が現れる可能性もある(それは漫画やアニメ界ですでに登場しているかもしれないが)。

(余談2)

ところでペルソナシリーズは、現在でも数少ない日本の誇れるRPGだと思っています。

もちろん批判点がないわけじゃありませんが。
ほんとうにおもしろい作品を作るっていうのは、大変ですね。

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